出羽国村山郡尾花沢(現尾花沢市)の豪商鈴木清風は、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に「尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志卑しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。」とあり、芭蕉をあたたかくもてなした。

 清風は通称八右衞門(3代目)、法名を道祐といい、清風は俳号である。清風は31歳から36歳までの間に『誹諧おくれ双六』(1681年刊)・『稲筵』(1685年刊)・『誹諧一橋』(1686年刊)の3冊の俳諧撰集を刊行したがその若さですでに天下の俳諧師としてりっぱな業績を残している。京都や江戸の一流の俳人と伍し、俳聖松尾芭蕉と接触するなど、その俳諧は田舎の金持の旦那芸ではなく、出羽俳壇の中心人物であった。

 清風は1721年(享保6)1月12日に71歳で没している。61歳のとき長男の4代目八右衛門あてに家産の分与後半部分には家訓的遺言を書いている。遺言は@公儀(幕府)を第一に大切にすること、A運上沙汰は先祖より嫌いだから固く取り組まないこと、B荷物を無税で関所を通さないこと、C禁制品は一切売買しないこと、D新田開発を願い出ないこと、E鉱山および材木山経営は一切行わないこと、F一村徒党の場合は、村の重立や百姓の多数派に印判することの7か条に要約できる。

 清風にかかわって次のような伝説が残っている。

 1698年(元禄11)夏、いつもの通り紅花荷物を江戸に上らせると、江戸の商人たちは不買同盟を企て、密かに捨て売りを期待した。これに対して清風は一策を案じ、品川海岸において紅花荷物をことごとく焼き棄てた。紅花の値段はにわかに暴騰して20〜30倍にも上がった。ところが、清風の焼却したものは、実はカンナ屑を染めた偽物で、本物の紅花荷物は倉庫深く秘められていた。そのため清風は一獲3万両の利益を得たのである。

 「紅花大尽」といわれた清風は、屋号の島田屋から取って自ら島田重三郎と名乗り、しばしば吉原に遊び、当時、仙台藩主伊達綱宗の恋人として有名な三浦屋の高尾太夫とは、とうから意気相通じ、深い馴染みを重ねていた。これを知った伊達綱宗は、金力で意地を張り、暴力で威嚇(いかく)し或はまた権柄(けんぺい)づくで誘惑しようと努めた。しかし、町人の重三郎と遊女高尾との絆は、大大名の力でもっても絶つことができなかった。

 清風は紅花を売って獲得した3万両は、「尋常の商法で得た金ではない、江戸っ子を騙して得た金を持ちかえったのでは、この清風の男が立たぬ、いっそ吉原でこれをきれいに打撒(うちま)いて、金で身を苦しめているあわれな人びとを慰安してやろう。」と思った。三日三晩、吉原の大門をとざして、稀代(きだい)の豪遊をやった。高尾はますます清風の意気に惚れ込んだ。清風が帰国の時に、高尾は別離を惜んで伊達家の家宝六歌仙の一品であった柿本人麿の伽羅(きゃら)の木像と「君は今駒形あたりほととぎす」と自ら詠んでしたためた短冊を清風に贈った。鈴木家では1882年(明治15)屋敷の北西隅に小さな祠(ほこら)を建て今でも人麿像を祀っている。毎年5月18日にささやかな祭祀を行い、7月3日から13日まで芭蕉・清風歴史資料館で人麿像を公開している。

 伊達綱宗は巨万の財力で高尾太夫を身受けした。しかし、遊女としての高尾の肉体は購(あがな)うことはできたが、人間としての高尾の魂までも占有することはできなかった。高尾の胸はもちろん清風を恋い慕う焔(ほのお)でひたすら燃え立っていた。それを不満に思った伊達綱宗は、隅田川の舟中で高尾を斬殺してしまった。清風はいたくこれを歎いて、1699年(元禄12)高尾太夫追善のために尾花沢に念通寺を建立し、厚く彼女の菩提を弔ったという。

 この伝説は、人間の本能を肯定し、武士によって卑しめられていた営利活動を認め、財力によって何事もなしとげられるとする元禄商人の自信を代弁している。清風の遺言とはあまりにも対照的な話であるが、正徳期の遺言で冒険や一獲千金を戒めているのは、鈴木家の基礎もかたまり、守成(しゅせい)の階段に入ったことのあらわれであろう。

 出  典 長井利吉『映畫脚本 紅花大尽』(大正13年8月刊)

 参考文献 尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風』(1987年3月刊、芭蕉・清風歴史資料館)

 伝承に登場する柿本人麿の木像が鈴木清風の子孫宅に現存している。その伝来を記した1837年(天保8)年の記録「人麿大明神旧記」(鈴木八右衛門家文書)には、この像が藤原定家所用の由来をもつ火伏神てあり、芭蕉の訪問後、江戸にて「師弟の契約」を結んだ清風が、同門となった宝井其角を通じて入手したとあり、上記の伝承とは内容を異にしている。その一方で同書には「近郷近国」の人々が「さまざまの説」が付け加えられていることを記しており、遅くとも19世紀前半には、この像をめぐって様々な言説が存在していたと推測される。

 なお近代以降の動向であるが、1924年(大正13)、尾花沢町出身で北村山郡選出の山形県会議員長井利吉(利右衛門、号雪堂)が、冒頭の伝承とほぼ同一の内容をもつ映画脚本『紅花大尽』(山形市・大仁堂発行)を作成している。同家は初代尾花沢町長をつとめ、利吉は1925年に開通した尾花沢鉄道(大石田・尾花沢間)の創設にも尽力した名望家であった(『山形県議会歴代議員名鑑』)。脚本の作成は、上記の近世尾花沢商人の活動をふまえた大正期の地方名望家による郷土顕彰の一環とも考えられるが、さらに検討を要する問題である。

  「紅花大尽」伝承の成立や受容の過程には、近世から近代の尾花沢地域の社会状況の変化が反映されていると考えられる。

 『本阿弥行状記』という本がある。京都の本阿弥光悦、その孫の光甫や、一族の人々の記した見聞記を本阿弥光春(宝暦8年・1758年没)が整理編集したものが原本となって、世に流布されたものという。本阿弥家の私家本だが、資料的価値も高いとされている。その中巻の85段に、

  奥州最上の某、紅花をひさぐ大に富る商人にして、その性賎しからず。予とも年久しき刃物のこと、又は茶事にても、度々往来もいたせし事なり。一両年以前より、子息、親父の代として上京、先代の因み故、同断にねんごろなり。去年江戸逗留のせつ、右子息旅宿へ尋ねしに、若き事ゆえ夜々遊女へ参らるる趣なり。酒なども出て後、予に申さるるは、近比老人に対し失礼がましく候へ共、この文を御覧可給、可否の事分り兼候よしなり。何か先代よりの懇意の貴家の事、老人が見て分る事に候はば、随分可否を可申と、遊女の文を見候に、其用文の所長き故、前後は略之、

    其元殿は田舎にても名高き御方なり、まして當廓にても誰知らぬ者もなき御果報目出たき御方そや、然るに此比は廓の賎しき言葉つき、髪の結様、衣類等まても一々御真似被成候様子見請、殊の外気毒に存しまいらせ候、只々其元殿ハ其元殿の御身分の通りにして、品よく御遊び被成度事におはしまし候、御国へ御帰り被成、白然廓の風儀直り不申候へは、御両親様をはしめ、家内の衆まてにも何とか存いれも悪く、御身の為にもいかゝなり、心におもふ所、かたちにあらはるると承りまいらせ候へは、返々廓の賎しき真似は御やめ可被成候、一樹の蔭、一河の流も、他生の縁と承まいらせ候ゆゑ、御異見申上まいらせ候、私とてもこの勤めをさらさら好み候事にては無之、親の貧しき故、かやうの賤か身になり申候、これも前世の約束とあきらめ候、せめてなれ奉り候御方殿の御為に成事は御用ひなくとも、我等を御不便御加へあれはこそ、夜々御通ひも被下候事ゆゑ、かくはしめし上まいらせ候御約束の緋ちり緬の御襦袢御申付のこと故、ふたつ紋をちらしに縫せ置候、ひとへにては御あせなと出候時に、縫の所こはわ候故、紅のうらを付置候、かならすかならす人中にて御ぬき候事は御無用と存上まいらせ候、其外御約束の白菊、さる御方の御別れにもらひまいらせ候へとも、御望み故、上まいらせ候、香合は橋立の松とやら承りまいらせ候、是も御とめ置、何事も御けんにと。末を略す

 此文の體、さてさて感心いたし候事也。遊女が異見一々承知のよしにて、一両年も過て此人身請をせられ、国へつれ帰らるゝ砌、此文の事を我等ほめ候故、身請もせらるゝほどにむつましくも相成候とて、二人連にて京都へのぼり尋られてしみじみ遊女も礼をのべたり。あゝ賤しき遊女とてもあなどるべからず。

                               正木篤三著『本阿弥行状記と光悦』(昭和22年正月)

「鈴木清風邸跡」

「芭蕉・清風歴史資料館」

 昭和58年7月3日、芭蕉と清風の出会いを偲び、地域の歴史と文化に対する認識と理解を深めることを目的に開館した。
 建物は、旧鈴木弥兵衛家住宅で。雪国の町屋の完成した姿を伝える貴重な遺構である。

 元禄2年5月17日(陽歴1689年7月3日)、芭蕉と曾良は、険しい山刀伐峠越えて、ここ尾花沢の鈴木清風さんを訪ねました。『おくのほそ道』には「かれは富める者なれども、志卑しからず」と記されています。

「おくのほそ道」研究 もくじ

「清風伝説」        尾花沢市歴史文化専門員  梅 津 保 一

伝えたい、誇りをもてるふるさとの話

「紅花大尽」 鈴 木 清 風

  柿本人麻呂像(鈴木正一郎氏所蔵)

 清風伝説にいう江戸吉原の三浦屋高尾太夫から贈られたもの。

     米倉 兌画「鈴木清風」

 「紅花大尽」鈴木清風は、元禄期の出羽国を代表する豪商で、風雅にも心を寄せた人物でした。