十 むすびにかえて

 「奥の細道」サミットの開催趣旨(昭和六十三年十月二十一日)に、「『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり』で始まる日本文学史上最高傑作といわれる松尾芭蕉の『おくのほそ道』紀行文は、日本文学を象徴するものとして広く世界へ紹介されております。
 『おくのほそ道』紀行三〇〇年を契機として、ゆかりの市町村並びに関係機関が芭蕉翁の業績をより一層顕彰するとともに、併せて地域の活性化に結びつく活動と郷土の歴史文化の活用を互いに連携し合い、広く内外にむけて展開しようとするものです。ここに『おくのほそ道』紀行に関わる市町村と関係機関の代表者によって、未来に継ごうとするものであります。」とあります。
 今後の地域づくりは、官と民の間で適切な役割分担を図り、主役となる人づくりや、活動を支援する新しい組織づくりを進めることが必要です。またそれぞれの主体が責任と高い意識を持って、参加していくことが大切となります。私たちは、地域再発見の活動や独自の価値観づくりなどを進めながら、地域の魅力ある個性を磨いて活用していくことの重要さを提言しています(「おくのほそ道 地域の魅力」 二〇〇四年六月二十五日『山形新聞』)。

 

資料提供・協力者(敬称略)

  天童市   大石田町
  
  笠原 登  吉澤隆善 二藤部良三  関 淳一

    山形市       最上町
    
 歌川 博  封人の家

  尾花沢市
     大類 勉    鈴木 璋     星川保松     柴崎重夫
     大高 滋    三井栄佐雄  沼沢孝一   三浦好昭
     黒田良太   斎藤久市   佐藤良彦     鈴木 
     小松良雄    菅 良邦   大類 誠    菅藤昌己
     伊藤ふみ子  菅野美和子  菅野裕子   遠藤久子  
     細川高雄    養 寺    念   上町観音堂
     尾花沢市歴史散歩の会の皆さん

 参 考 文 献

o 杉浦正一郎校注『おくのほそ道』(一九七〇年) 岩波文庫

o 麻生磯次訳注『現代語訳・対照奥の細道』(一九七〇年)旺文社文庫

o 板坂元・白石悌三校注現代語訳『松尾芭蕉おくのほそ道』(一九七五年)講談社文庫

o 萩原恭男校注『芭蕉  おくのほそ道』(一九七九年)岩波文庫

o 久富哲雄著『おくのほそ道(全訳注)』(一九八四年) 講談社学術文庫

o 上野洋三・櫻井武次郎編『芭蕉自筆 奥の細道』 一九九六年)岩波書店

o 角川書店編『おくのほそ道(全)』(二〇〇一年)角川ソフィア文庫

o 潁原退蔵・尾形 仂訳注『おくのほそ道(新版)』(二〇〇三年)角川ソフィア文庫

o 中村俊定・萩原恭男校注『芭蕉連句集』(一九七五年)  岩波文庫

o 伊地知鉄男他編『俳諧大辞典』(一九五七年) 明治書院

o 金沢規雄著『おくのほそ道をたずねて』(一九七三年) 宝文社

o 松尾靖秋編『俳句辞典 近世』(一九七七年) 桜楓社

o 中村俊定監修『芭蕉事典』(一九七八年) 春秋社

o 加藤文三著『奥の細道 歌仙の評釈』(一九七八年)地歴社

o 加藤楸邨著『芭蕉の山河-おくのほそ道私記-』 (一九八〇年) 読売新聞社

o 阿部正美著『新修芭蕉傳記考説行實篇』(一九八二年) 明治書院

o 安藤次男著『おくのほそ道(古典を読む)』(一九八三年)岩波書店        

o 井本農一著『おくのほそをたどる』上・下(一九八四年)  角川文庫

o 朝日新聞社編『おくのほそ道陸奥北行・越路南行』(一九八五年) 朝日新聞社

o 久富哲雄著『「奥の細道」を歩く事典』(一九八七年)三省堂

o 平井照敏著『「おくのほそ道」入門』(一九八八年)永田書店

o 金沢規雄・横井 博・浅野 晃編『奥の細道とみちのく文学の旅』(一九八九年)里文出版

o 山本健吉著『奥の細道を読む』(一九八九年) 河出文庫

o 尾形 仂著『歌仙の世界』(一九八九年)講談社学術文庫

o 尾形 仂・森川 昭監修『おくのほそ道図譜』(一九八九年)朝日新聞社

o 沢木欣一編『奥の細道を歩く』(一九九〇年)東京新聞社出版局

o 峰尾北兎著『奥の細道伝説紀行』(一九九〇年)博友社

o 山本健吉現代語訳・渡辺信夫図版監修『図説おくのほそ道』(一九九〇年)河出書房新社

o 堀切 実著『「おくのほそ道」をよむ』(一九九三年) 岩波ブックレット

o 今 栄蔵著『芭蕉年譜大成』(一九九四年)角川書店

o 石堂秀夫著『「おくのほそ道」全行程を往く』(一九九四年) 三一書房

o レズリー・ダウナー著高橋素子訳『芭蕉の道ひとり旅-イギリス女性の「おくのほそ道」-』(一九九四年)新潮社

o 高橋 治著『おくのほそ道ほか』少年少女古典文学館26(一九九四年) 講談社

o 久富哲雄著『奥の細道の旅ハンドブック』(一九九四年)三省堂

o 山本 脩著『芭蕉 奥の細道事典』(一九九四年)講談社+α文庫

o 矢口高雄著『奥の細道』マンガ日本の古典25  (一九九五年)中央公論社

o 安藤次男著『古典を読む おくのほそ道』(一九九六年)岩波書店

o 大林信爾編『橋間石「奥の細道歌仙」評釈』(一九九六年)沖積舎

o 尾形 仂著『「おくのほそ道」を語る』(一九九七年)角川書店

o 田辺聖子著『「おくのほそ道」を旅しよう』古典を歩く11(一九九七年)講談社文庫

o 植田正治・黒田杏子著『「おくのほそ道」をゆく』(一九九七年)小学館

o 岡本 勝著『「奥の細道」物語』(一九九八年)東京堂出版

o 森 敦著『われもまたおくのほそ道』(一九九九年)講談社文芸文庫

o 嵐山光三郎著『芭蕉の誘惑-全紀行を追いかける』(二〇〇〇年)  JTB

o 金森敦子著『芭蕉はどんな旅をしたのか-「奥の細道」の経済・関所・景観-』(二〇〇〇年)晶文社

o 菅野拓也著『奥の細道三百年を走る』(二〇〇〇年)丸善ライブラリー

o 尾形 仂著『おくのほそ道評釈』(二〇〇一年)角川書店

o 尾形 仂編『芭蕉ハンドブック』(二〇〇二年)三省堂  

o 萩原恭男・杉田美登著『おくのほそ道の旅』(二〇〇二年)岩波ジュニア新書

o 長尾 剛著『手にとるように「おくのほそ道」がわかる本』(二〇〇二年)かんき出版

o 堀切 実編『「おくのほそ道」解釈事典』(二〇〇三年) 東京堂出版

o 土屋博映著『「奥の細道」が面白いほどわかる本』(二〇〇三年) 中経出版

o 角川書店・ヴィトゲン社『週刊おくのほそ道を歩く』鳴子、立石寺、最上川、羽黒山、月山・

 

 尾花沢の雑俳―前句付の伝統

 
鈴木清風は、『尾花の系譜』に「尾花か沢の宗匠たり(中略)我ひとりさめてもせつなく、笠附を出し、老若男女をすすめ、自財寶をつひやし褒美よろしくする」とあるように、尾花沢俳壇の宗匠のかたわら、雜俳種目の笠付を興行していました。
 
雜俳は、俳諧の亜流に属する「前句付」をはじめ、そこから派生した「笠付」以下の多種多様の形式と内容をもっています。前句付は連歌に付合稽古の方便として行なわれていましたが、貞門俳諧を通じて大衆化し、やがて独自の庶民文芸となり、雑俳へと分化しました。
 
俳諧稽古の前句付の大衆化は、地方俳人が都会の宗匠に前句を請い、これを同好の士に取り次ぎ、点料を定め付句の批点の仲介を試みたことにはじまります。その初めは、万治年間(一六五八~六〇)前後の頃と推定されています。これを転機として前句付は、徐々にその性格を変えはじめました。元禄初年の上方の前句付は、すでに相当の組織をもち、企業化していました。この風潮は全国に及び、ことに江戸では、早く貞享年中に調和の五句付の記録があり、元禄年中すでに専門点者が輩出し、「万句寄」「万句合」等の名のもとに興行されていました。
 大石田町大字鷹巣の西蓮寺に、元禄十四年(一七〇一) 五月の『前句付集』が残っています。江戸の調和・立志えんし艶士三評の月並前句付集で、二番勝句に尾花沢の習憩(しゅうけい)の「初雪を子に起さるゝ親こゝろ (うつくしき物、美敷もの)」、七番勝句に山形の一屯(いっとん)の、「宇治の文字帛塩瀬が濃紫  (うつくしき物、美敷もの)」が入集しています。
 この前句付集の末尾に、「元禄十四年辛巳五月五日限句寄 惣連二千有七十余吟  清書所  瓢堂」と書かれています。おそらく二番勝句となった尾花沢の習憩に褒美として清書所自筆の前句付集が与えられたものでしょう。
 評者(点者)の調和は、陸奥岩代生れの俳人で、寛文中期以後江戸へ移り、延宝期(一六七三~八〇)には江戸で最大の勢力を擁していました。蕉門勢力の伸張につれて次第に衰え、元禄以後は前句付の点に携わって勢力圏の維持を計らねばなりませんでした。清書所板の『十の指』『風月の童』『風月の童後編』『相鎚』は、元禄十二年(一六九九)九月二十日以降、同十五年(一七〇二)五月二十日までの調和等点の月並前句集の勝句集です。前記の集の勝句は、『風月の童後編』に収められています。
 元禄期の「万句寄」「万句合」は、享保期(一七一六~三五)の蝶々子収月などを経て、川柳、露丸らの万句合にうけつがれ、川柳が生まれる素地がつくられました 元文元年(一七三六)尾花沢の揚 水を点者とする前句付集『かねのなる木』(武田喜八郎氏蔵、『尾花沢市史資料』第四輯所収)によって、当時の尾花沢における前句付興行がわかります。
 宝暦期(一七五一~六三)に前句付から川柳が独立しましたが、それによって前句付が消滅したわけではありません。尾花沢地方においても、寛政年間の万句寄掛額(尾花沢諏訪神社奉納)、文政十二年(一八二九)十月正厳村(尾花沢市大字正厳)大類朝次郎(号千柳)書の『古吟集壱万句寄』(『尾花沢市史資料』第四輯所収)などが残されています。
 『古吟集壱万句寄』には尾花沢地方はもとより、大石田・楯岡・谷地・天童・左沢・寒河江・小国・長瀞などの人びとの句一五三〇吟が集録されており、当時、前句付が盛んであったことを示しています。
 
その後も尾花沢地域に前句付の命脈は伝わり、現在に至っています。

大石田  一栄
     鷹野氏


村川    残水



歌川    俊親



鈴木    似休



三井    崇智





       宗圓





田宮氏  年玄

藻鏡(もがみ)   文想(ぶんそう)   椿亭(ちんてい)   訥言(とつげん)   厚丸(あつまる)

戯蝶(ぎちょう)   松譜(しょうふ)    寄竹(きちく)     五竹(ごちく)     米斎(べいさい)

松貨(しょうか)   素□(そきゅう)    松藻(しょうそう)   岱文(たいぶん)   小竹(しょうちく)

o 金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』(二〇〇四年)角川書店

o 立松和平著『すらすら読める奥の細道』(二〇〇四年)講談社

o 早坂忠雄著『奥の細道-芭蕉と出羽路』(一九五五年) 早坂忠雄

o 山寺 豊著『図説出羽路の芭蕉』(一九七七年)宝珠山立石寺

o 尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風-おくのほそ道・尾花沢-』(一九八三年)  芭蕉・清風歴史資料館

o 山形県奥の細道観光資源保存会編『奥の細道-出羽路-』(一九八五年) 同

o 星川茂平治編著『尾花沢の俳人鈴木清風』(一九八六年) 尾花沢市地域文化振興会

o 外山滋比古・松田義幸編『観光文化と「奥の細道」』(一九八六年) 誠文堂新光社

o 柏倉亮吉監修・山形放送編『やまがたの文学碑』 (一九八七年) 山形放送

o 梅津保一著『「おくのほそ道」をたずねて―出羽路の芭蕉―』(一九九一年)最上川文化史研究会

o 梅津保一著『「おくのほそ道」出羽路の芭蕉』(一九八九年)大石田町

o 奥山譽男『奥州路の芭蕉』(一九九一年)  不識書院 

o 中原章嘉著『羽州山形  芭蕉句碑物語』(二〇〇二年)中原章嘉

o 鳴子町史編纂委員会編『鳴子町史』(一九七四~七八年)鳴子町

o 山形県高等学校社会科教育研究会編『山形県の歴史散歩』(一九七七年)山川出版社

o 尾花沢市史編纂委員会編『尾花沢風土記』(一九八〇年) 尾花沢市

o 国文学研究資料館編『酒田市立光丘文庫俳書解題』(一九八三年)明治書院

o 最上町史編纂委員会編『最上町史』(一九八四~八五年)最上町

o 大石田町編『大石田町史』上巻・下巻(一九八五~九三年)大石田町

o 『大石田町「おくのほそ道」紀行三〇〇年記念事業誌』(一九九二年)大石田町

o 出羽三山神社編『図説出羽三山一四〇〇年』(一九九三年)出羽山三神社社務所

o 山形県高等学校社会科教育研究会編『新版山形県の歴史散歩』(一九九三年)山川出版社

o 『山形県歴史の道調査報告書「奥の細道」一・二』(一九七九~八〇年)山形県教育委員会

o 『山形県歴史の道調査報告書「羽州街道」』(一九七九年)山形県教育委員会

o 『「歴史の道」保存整備工事報告書 出羽仙台街道山刀伐越』(一九九〇年)尾花沢市

o 『山形県歴史の道総合計画-「おくの細道」-報告書』(一九九八年)山形県教育委員会

湯殿山、酒田・鶴岡、象潟(二〇〇三年) 角川書店                                                   

米 沢

  鶯珎(月渓庵 板谷彦惣)

  都甫(             

  呉朔(べく庵  奥村鍋助)

  才公(桃花堂  中村才助)  

  宗丘(梅 庵 中村宗四郎)             

  南渓(米沢藩 □窓庵 片桐繁太郎)      

  敷山(銅屋町 二妙庵梅窓 高橋六右衛門) 

  鳳そ(世外  眞海晩成)            

米沢小松                                 

  英子(大和屋久吉)                   

  可有(四望亭 大武傳治)            

  星橋(拘泉堂 金子源三郎)              

  文栽(柳眼亭  菊池柳庵)               

  茂登加(曳尾庵 稲村屋久内)        

米沢堀金                                 

  盤亀(柏樹園 伊藤亀次)            

  永谷(白生堂  鈴木榮弥)               

  漁月(市中庵 情野藤吉)     

  四暁(了蔵庵  観善寺)              

米沢宮                                  

  萩尾(小松氏女みの)                  

  藤尾(加藤氏女津喜)                  

米沢小出                                

  鶴峯(阿部氏)                        

  左琴(竹陰  竹田清五郎)            

  瀧尾(葆眞堂 横沢甚三郎母)          

  翠崕(河崎治郎右衛門)             

  大賚(百暁園 松坂玄庵)              

  茶丘(伊藤有恒)                     

米沢産雲水                             

  新甫(柏陰  本田氏)           

米沢東藤泉                            

  汝松(藤泉舎 濱田五左ヱ門)          

  隻竹(五行庵 旭樓)              

 
分外(三茅舎尾形弥兵衛)

山 形                                  

  洋々(御蔭庵 車屋六右衛門)        

  雲山(松庵 又竹翁 角田喜右衛門)     

  孝輔(山形庵 本宮小一郎)             

  其水(金麗舎 福島豊吉)                

  和歌喜(若木庵 若木屋清八)            

  湖水(竹園 大串武七郎)              

 五瓢(五瓢庵 後藤屋俵助)          

  樅古(一豊庵 松坂屋安蔵)              

  志月(米屋長吉内)                  

  雪守(山形藩 百花庵 吉川幸蔵)     

  静山(紅空亭  鍋倉屋久蔵)              

  千楽(松坂屋傳五右衛門)             

  大圭(稲陰 像年 角田文吉)             

  椿雨(紅花園 三河屋吟兵衛)            

  竹酔(蛍雪庵 巨仙 山形住            

   東都深川産 吉川五郎兵衛)           

  梅霞(蝶夢庵 武田長七)                

  梅旭(朗輝亭 崑野氏)              

  不木(啼鳥園  香川俊貞)                 

谷  地                                

  一糸(田宮與之助)                 

  羽来(尚古堂 竹杖園 井上吉五郎)    

  近峯(森谷與吉)                 

  懐橘(玉翠堂 桜井源蔵)           

  湖洲(本木仁平次)                

  窓古(香信舎  田宮次三郎)          

  秋月(月岡養達)                   

谷  地                                

  峯朗(落霞園  柴田礼司)              

  萬丸(無事齊  宇野與蔵)            

  緑峯(石蘭亭 小自在 槇藤左衛門)      

大石田                                   

  一羽(惟翠庵 二藤部藤太郎)        

  丘雨(二藤部兵三郎)              

  南叟(幽棲庵  田中寿碩)            

庄内清川                                

  柳眉(齋藤次兵衛)                

酒田                                 

  介二(鈴木介二)                   

  桂僊(  富樫権介)                   

  魯長(  越後屋長左衛門)              

  東皐(中町二丁目 大坂屋伊助)       

  鶴樹(                           

 尾花沢において縁者村川残水(ざんすい)・三井宗智(そうち)・鈴木宗圓(そうえん)、尾花沢の俳友鈴木似休(じきゅう)・歌川俊親(としちか・東陽)、大石田の鷹(高)野一栄(たかのいちえい)、谷地の田宮年玄(ねんげん)とあい、三十余日滞在しその間、中島村や大石田にも足を運んでいます。三千風の縁者は、宗智・宗圓は三千風の兄であり、残水(素英)  おいは甥にあたります。
 岡本勝氏は、三千風が「当所の誹仙。鈴木清風は古友なり」といっているように、清風とは古くから親しかったようです。そうした清風であったからこそ、『おくのほそ道』紀行で尾花沢に来訪した芭蕉と曾良の接待に、三千風の縁につながる村川素英をひきたててやるという意味もふくめて、当たらせたのであろうといわれています(岡本勝『大淀三千風研究』桜楓社)。
   江戸俳壇において、芭蕉が「超俗的な純粋美の中に風狂の精神が貫かれる」俳諧を提唱し、新しい気運にみちた蕉門一派の勢力が主流をなしつつありました。
 
芭蕉が尾花沢を訪れたことにより、この「新古二道」に踏み迷っていた尾花沢俳壇も、村川素英や大石田の高野一栄・高桑川水らは蕉風へと傾倒していきました。蕉門には後に鈴木暁声(ぎょうせい)・上石線柳(ういいしせんりゅう)・鈴木加祐(かゆう)・町岡一中(いっちゅう)・坂部壷中(こちゅう)・鈴木東水(とうすい)・鈴木東籬(とうり)・柴崎有隣(うりん)・長井西湖(せいこ)・鈴木素州(そしゅう)・沼沢英子(えいし)などがあらわれました。
 清風や鈴木直水(ちょくすい)らは蕉風に接近しつつもなお理智を好み談林風の俳諧を継承しました。直水は、芳賀一晶(はがいっしょう)に師事し、素英とともに尾花沢俳壇の宗匠として活動し、鈴木東水(とうすい・二代)・陶柳(とうりゅう・念通寺八世)・上石柳枝(ういいしりゅうし)・伊藤二扇(にせん)・鈴木指月(しげつ)をはじめ多くの門人を指導しました。彼はまた「前句付」を尾花沢に定着させた一人ですが、一晶の影響によるものです。
 芭蕉の『おくのほそ道』の旅の翌元禄三年(一六九〇)に忌部路通が、元禄五年(一六九二)に各務支考が出羽路を訪れました。芭蕉の三回忌に当たる元禄九年(一六九六)には、蕉門で芭蕉と同郷伊賀上野の俳人天野桃隣が出羽路を訪れました。これらの旅は、いずれも『おくのほそ道』をたどって師の足跡を偲ぼうという跡追い紀行でした。天野桃隣の『陸奥鵆』(『陸奥千鳥』)出羽路の旅は、磐提山(岩出山)―鳴子―尿前―関屋(関谷)と、芭蕉と同じコースをたどって尾花沢に入りました。しかし、尾花沢では、「是より尾花沢にかゝり、息を継がんとするに、心当たる方(鈴木清風か)留守也。一のしに大石田へ出て、加賀屋が亭に休息、爰より酒田への乗合を求下ル」とあり、大石田から最上川を船で酒田へ下りました。
 
(前略)尿前より関屋(谷)迄十二里、山谷嶮難の径にて、馬足不立、人家纔にアリ。米穀常に不自由。別而飢渇の折節宿不借、可食物なし。二度可通 所ニあらず漸及暮関屋ニ着て、検断を尋、歎キよりて一宿明ス。
  山路吟(山刀伐峠越え)
 o おそろしき谷を隠すか葛の花   
 o 焼飯に青山椒 を力かな
   
(中略)
 爰より彼最上川、聞及たるよりも、川幅広く水早し左の山続に滝数多アリ。中にも白糸の滝けしきすぐれたり。此川筋坂田迄二十一里、川の中、船関所四ヶ所アリ。
 尤 大石田の宿よりの手形右の所々にて入ル。能聞繕乗べし。なぎ沢・清水・古口・清川、此四所なり。
 o 短夜を二十里寝たり最上川
 o しら糸の滝やこゝろにところてん
  
(以下略)

ミむきに仙臺へとこゝろざし。最上のうち楯岡村は。予が好身。かつ朋友どもひらに滞てよと。五日ばかり徒然種を講じ。     
                                             (『日本行脚文集』巻七)

o 月にとハん神代には有や子持石
o 最上河の船津にすめるときゝて。古友のむかしをとぶらひしに。饗シおほかたならず。
o をのをの挨拶の句ども。銘々に脇に小序せしが略す
o偖あるベきならねバ。なごりおしげにかヘリミ。みな

 銀山の隣郷。中嶋村に中古。文禄年中。なにがし田園翁。熊野参詣七度の立願満ずる年。那智のにて。小美なる石一つ拾ひ。前□にいれて下向せしが。年月を経るにしたがひ。此石ふとりける程に。(中略)余二十餘年むかし見しに又倍せり。いかにも慥なる事に侍る。かならず疑心あるべからず。

 鈴木清風とは、上京中で会うことができませんでした。三千風は、尾花沢滞在中、中島村の子持石を見て、「子持石ノ記」を記しています。

最上谷地

「おくのほそ道」尾花沢文学碑(尾花沢市横内:そば処「明友庵」前

 いずれも幕末から明治にかけて活躍した人々です。このうち宗匠は、鈴木雪堂と柴崎藻鏡の二人です。雪堂は画を熊坂適山に学び、洒脱な作品を多く残しています。雪堂の句碑が梺町の薬師園にあります。

机友(きゆう)

觴山(しょうざん)

蕉非(しょうひ)


佐賀(さが)

雪堂(せつどう)

椿亭(ちんてい)

厚丸(あつまる)

戰蝶(せんちょう)

松譜(しょうふう)

松年(しょうねん)

青楓(せいふう)

五竹(ごちく)

米斎(べいさい)

松操(しょうそう)

直行(なおゆき)

舞奔(ぶほん)



水竹(すいちく)

 柴崎 繞助(しばさきぎょうすけ)

 同   繁蔵(しげぞう)

 菅野 一平(すがのいちべえ)

 志波 佐喜(しばさき)

 鈴木 五郎兵衛(すずきごろべえ)

 同   久左衛門(きゅうざえもん)

 村田 忠八(むらたちゅうはち)

 渡會 権八(わたらえごんはち)

 橋本 八百藏(はしもとやおぞう)

 笹原 助九郎(ささはらすけくろう)

 鈴木 八右衛門(すずきはちえもん)

 竹岡 善(左衛門・たけおかぜんざえもん)

 安西 才助(あんざいさいすけ)

 斎藤 芳蔵(さいとうよしぞう)

 有路 厳右衛門(あるじげんえもん)

 渡會屋 与吉(わたらえやよきち)

選者

 三沢 文良(みさわぶんりょう)

主催

 柴崎作次郎 黙語斎藻鏡

 安西荘三郎 清閑斎寄竹

 菅野芳 助 松貨井松貨

 同 久之助 松 斎素虻

(読み下し文)

 近世天下の文運隆盛にして、学者其の物を格するに、徒らに翫ぜんが為に具うるを嬉 ぶ者漸 く多し。情楓子は羽の花澤の人也、其の先清風翁は蕉門の巨擘也、今を距てる殆ど百五十年にして情楓子に至る、又能く祖業を修む。
 今秋大いに翰墨の筵を張り、しかして文雅の士を會す乃ち前賢の書画及珍器古物を羅列し、以て諸士の観に供す、是即ち蕉翁の手澤にして、故清風翁の遺愛也。
 孔子曰く、文を以て友と會し、友を以て仁を輔く、蓋し亦情楓子追遠の志也、鳴乎當今の世、其の物を玩ぜずして其の志を表す者、情楓子の如く、則ち吾多く見ざる也、若し□盟の士、徒らに其の書画奇物を貴び、しかして其の志を尚ぶを知らざれば、則ち亦二翁の意に非ざるを恐る也

  安政三年丙辰秋八月五日

   市隠寒河江和撰   念通寺翰墨場 に於て

  安政五年(一八五八)七月、尾花沢の俳人達は、一枚の掛額を諏訪神社に奉納しました。この掛額に名を連ねた人々は次のとおりです。

念通寺翰墨林序
近世天下文運隆盛、而學者格其物、徒鳥翫嬉具者漸多矣、情楓子者羽之花澤人也、其先清風瀦者蕉門之巨擘也、距今殆百五十年而至情楓子、又能修祖業、今秋大張翰墨筵而會文雅之士、乃羅列前賢之書画及珍器古物以供諸士之観、是即蕉翁之手澤、而故清風翁之遺愛也孔子曰、以文會友、以友輔仁、差亦情楓子追遠之志也鳴乎當今之世、不玩其物、而表其志者、如情楓子、則吾不多見也若□盟之士、徒貴其書面奇物、而不知尚其志、則恐亦二翁之意也、安政三年丙辰秋八月五日

市隠寒河江和撰、於念通寺翰墨場中

 鴛鳴の「清風居士のむかしを忍ひて  爐びらきや過にし聖思ひ出し」は、土地の風流人たちが清風を「聖」として尊敬していたことを物語っています。

 清風居士遠忌追福

  雨の空もかくや尾花に山の月

   賀

 祖翁の直弟なる清風居士、此国この道の先達にして、芽出度身を終りしよし耶、こたび六代孫情楓子祖曽父のなせる孝をみがくのため、一百五拾年の遠回法筵をひろげられし尊ふとさの余りに吟

 恙なく暮るゝ芙蓉を手向哉

 有かたき月日積って吹尾花

                 七里庵川丈

                   (清風百五十回忌追悼資料)

  七里庵川丈は山寺の俳人です。俳風は月並調ですが、「有がたき月日」と吟じているのは一五〇年前に俳諧の種子をこの地に蒔いた清風以来、連綿とその流れが伝わったことに対する感謝の詠でしょう。この法筵接待・世話役に当ったのは、菅野松斎・柴崎藻鏡ら尾花沢の俳人たちでした。藻鏡は、当時尾花沢一の豪商で、新庄藩の御用商人として藩財政を取りしきっていた柴崎弥左衛門の俳号であり、餅米二俵をこの会のために提供しています。
藻鏡の句碑が梺町の薬師園にあります。

 この法筵に参加した主な俳人は、次のとおりです。

  霞峰(山形)・川丈(山寺)・羽人(漆山)・宗営(土生田)・雲外(六田)・凉川(大石田)・一羽(大石田)・丘雨(大石田)・江三(仙臺)・緑峰(谷地)・喜右(長瀞)・過日庵祖郷(江戸、点者)

追悼会の会場となった念通寺では 「翰墨林」を開催し、鈴木家伝来の書画の展覧会も行ないました。

  催  主                                

      涼居    情楓

會 日   七月廿日    念通寺院内   興行

            (大石田町 関 淳一氏提供の資料)

大石タ 一羽(いちう)     土チウタ  宗営(そうえい)     大石タ  思明(しめい)

世   話

上ノ山

ナカトロ

アヘツ

ヱト

マサワ

山テラ

風マ

ヒカシネ

千拙(ちせつ)

市隠(しいん)

久䕃(きゅういん)

祖郷(そきょう)

芦葉(ろよう)

川丈(せんじょう)

鯤斎(こんさい)

南坡(なんば)

山カタ

山カタ

ウルシヤマ

仙タイ

オホヤ

タテオカ

小イツミ

竹所(ちくしょ)

為春(いしゅん)

季䕃(きいん) 

宗古(そうこ)

松雲(しょううん)

水竹(すいちく)

花岳(かがく)

雪堂(せつどう)

ナリサワ

上ノ山

ヱマタ

ヤチ

ナカサキ

天トウ

山カタ

ロクタ

閑所(かんしょ)

栗山(りつざん)

巨文(きょぶん)

緑峰(りょくほう)

岩月(がんげつ)

雪山(せつざん)

霞峯(かほう)

永耕(えいこう)

大クホ

シン庄



サカエ

山カタ

山クチ

ナカサキ

白雲(はくうん)

眞柿(しんし)

景貫(けいかん)

月悠(げつゆう)

金英(きんえい)

東溟(とうめい)

旭斎(きょくさい)

大   補

一、御頭陀   巾嚢  狭細布  御頭巾裏絹     小風呂敷                     

      各者祖翁遷化後、去来子より清風へ配与せられし、世にしる処の遺物なり
 清風叟所持之遺物                 

一、人丸明 神木造   一、眼鏡  扇子  硯    頭巾帯    木こつ    書蹟

一、飛鳥井雅綱郷()()筆之新古今集    伊勢物語の歌かるた
      外に諸哲の書画類
       右開匡の品有を挙ぐ

詩歌連誹書画展観当日午前讀経音楽合奏中 各捻香
附 遺物披露
清風居士は芭蕉翁近親の直弟にして、當国正風俳詩の先達なり、翁この道の忠信なるを常にめでたまひて、数多の傳書を附ぞく()せられ、あま()さへ祖翁滅后の遺物を所受()したるいちじるしき一分ぞかし、しかるに世うつり人のかはり行にしたがひ、起廃存亡迯るべうなきり中にしたひ、居士六代の嫡孫情楓はおほぐちの美名をかがやかさん歟為に遠忌の法筵をいとなミ、ちなミに祖翁遺物の諸品を提出して、同志の風士とゝもに、いにし親灸の思ひをさばやとつぶやきけるに、ちかき友どちのゆるされしかば、やがて宴筵の期をなしり侍りぬ、あはれ遠近の風君、元禄の故宗師にだいめの心ちせられて、晴れも雨となミ来まし玉ハる、偏 に正風 繁茂のいさほし働てはさらなり、施主之其語りともに幸の眉をしりへにひがめとはかりて、ひ言をかい()つけ畢ぬ     

残月軒清風居士百五十回遠忌追福會

 清風百五十回忌法筵

 幕末に鈴木八右衛門家の家督を継いだ清風六代孫の豊太(法名釋道宣)は、俳号を情楓と称した風流人でした。安政三年(一八五六)に清風百五十回引上忌を催して法筵を開いています。村山郡一帯の俳人達を招待しましたが、記録によると、俳人たちにまじって代官所役人の名も見えます。

 日本芸術院会員加藤楸邨先生が揮毫した「おくのほそ道」、尾花沢の一節が刻まれている。

上石柳水(玄俊)撰「尾花の系譜」
 
 (旭川市鈴木重俊氏所蔵)宝暦十年(1760)に作成され、延宝から宝暦期までの約九十年間にわたる尾花沢地方の俳人たちの系譜が記されている。

  真宗大谷派花邑山念通寺の本堂 
 元禄十年(1697)の建立。一四八坪の大伽藍であり、鈴木清風が独力寄進した。

  安政たつのミな月
                                                           日新水竹しるす

  『俳諧海内人名録(はいかいかいだいじんめいろく)』にみる山形県内の俳人

 嘉永六年(一八五三)七月、大坂の花屋庵鼎左(かおくあんけんさ)、江戸の惺庵西馬(せいあんさいば)、仙台の五梅庵舎用の三庵社中が『海内俳家人名録』初編の刊行を計画し、入集者を募る引札(広告)を発行しています(西川町 工藤三九郎家俳諧資料)。
 
刊行趣旨書には、「其国を知るといえども、住處及び庵号・俗称等たしかならざれバ、文音尋訪その便りをうしなへり、依て今此一事を同志と企、いよいよ天下の風交を弘め、四海兄弟のよしミを通ずる一助となさんことを思ふのミ」とあります。
 応募する場合は、「何国何駅 何庵 何氏何右エ門、国・住處・表徳・庵号・別号・俗称、右、具さに御記し下さるべく候」とあります。
 料金については、「玉詠、四季にて四句御投与、内一句入集、彫費集冊とも入銀弐朱、入捨四匁、但し集冊相達し候節、御遣し下さるべく候」とあります。
 応募締切りと発刊については、「集句、来子(嘉永五年)三月限り早々上梓、七月迄に美製に致し呈上 るべく候 以上」とあります。
 詠草の届所と補助海内惣社盟は、京都の北村庵・伴水園、大坂の八千房、江戸の可布庵・福芝斎・梅之本・菊守園、西国の三明庵・鯨 山人、四国の鴬 庵・六外庵、仙台の足了庵・瓠形庵であり、さらに花屋庵・惺庵・五梅庵の執事所が惣届所となっています。
 稲州あて西馬の書簡(前掲、工藤三九郎家文書)に、

 (前略)御礼金・人名録料とも弐百疋慥 ニ入掌 御礼申上候、(中略)社友へも御伝聲可 被下候、(中略)集配達候為ニ白亥下向(以下略)
   七月廿五日            西 馬
  色も香も求めぬものよめくら花(等五句添)     

とあり、『俳諧海内人名録』に工藤稲州が入集したのは西馬のすすめであったことがわかります。

  『海内俳家人名録』初編は嘉永五年(一八五二)三月に上梓し、七月までに呈上することにしていましたが、刊行が遅れ、嘉永六年(一八五三)八月に書名を『俳諧海内人名録』乾坤と改め刊行されました。
 『俳諧海内人名録』は、鼎左と舎用の共編、西馬が校合し、乾坤の横本二冊本で、当時の一千余名の俳人の居所・通称及び各々その一句を収めています。
 
序を書いた護持院梧青については、よくわかりません。跋を書いた西馬は、通称豊三郎、字は俊明、上州 高崎の人です。弘化四年(一八四七)頃から江戸芝に住み、庵号を惺庵としました。別号を毛軒・樗道・蕉林子ともいいます。弘化元年(一八四四)剃髪して自喚居士。志倉(庫)氏、本姓冨 処氏。門人に三浦若 海・守轍白亥等がいます。編著に『標註七部集』『一翁四哲集』『西馬発句集』等があります。安政五年(一八五八)八月没年五十一歳。
 編者の鼎左は、藤井氏。別号を鳳棲舎・桃の本といいます。師奇淵の後をつぎ、花屋庵・大黒庵とも号しました。備後に生まれ、大坂に住みました。明治二年(一八六九)没、年六十八歳。
 
同じく編者の舎用は、本名山崎豊次、仙台東三番町寺小路住。曰人の門、師を通して稲州と親交がありました。天保九年、師曰人の大祥(三年)忌に際し、その追福集『みゝなれ集』を編み上梓、曰人の句を発句として脇起し歌仙、曰人親交の故人の句をも収めています。
 『俳諧海内人名録』乾坤に入集している山形県内の俳人は、次のとおりです。

 

稲乳のいなにハあらず鉢袋

しられけり鉄西行の秋の暮

              

尾花うら枯て。牛の細道行暮む



行脚衣。氣をしのぶずりの秋暮し

              

水風呂や烏衣の一しぐれ

               

落葉路も氣転や騅の馬ざくり

                

四面は雪の最上早歌ス

根甲焼て草鞋あてん

         

お七々の眉の霜うすハ申
 
見しは水鶏今又鴛の別かな

タカノス
鈴木氏

羽州



尾花沢

 『尾花の系譜』

  尾花沢地方の俳人系統を記したのが、『尾花の系譜』です。清風と同じ鈴木一族の富士城屋鈴木小三郎家(鈴木璋氏所蔵)に代々門外不出の本として所蔵されてきたものです。
 
『尾花の系譜』は、芭蕉来訪から数えて七十一年後の宝暦十年(一七六〇)に、尾花沢俳壇の一人である上石柳水字玄俊(ういいしりゅうすいあざなげんすい) が作成したものです。延宝から宝暦まで約九十年間にわたる俳人達の系譜が記されています。そのうち確実に尾花沢の俳人と思われる人は、七十三人です。しかし、『曾良随行日記』にあげられた人物以外については、はっきりと年代を特定できません。
 
巻尾に、「寶暦十一辛 巳年孟春元旦、釈 宗恩(しゃくそうおん)、東水三郎右衛門盛保(さぶろうえもんもりやす)之命ニより、羽陽村山郡尾花ケ沢ノ散人鈴草山素州書」とあります。上石柳水が独自の立場で書いたものを、その翌年東水が素州(そしゅう)に命じて清書させたと考えられます。
 末書の「俳凡例々所形榮評章(はいはんれいれいしょけいえいひょうしゅう)」は、主な俳人についての人物評です。素英については「于時芭蕉翁奥羽行脚の砌 、清風子を尋 給へしかども、随身の俳人を出して其身ハとりあハんとなん、素英一人蕉翁御逗留の間、昼夜随身して俳諧の奥儀、風流を儲ふけられし」(『尾花の系譜』)とあります。これがいわゆる清風の芭蕉冷遇説に一つの根拠を与えています。
 
素英の人物と業績については多くの筆を費やしています。直水 や素州 は、『尾花の系譜』によれば素英の直接の門人ではありませんが、素英の活動を強調するあまり、清風を引きたおすものになったと考えられます。
 明和・天明期(一七六四~八八)には美濃派の俳諧が主流をしめ、その中心は大石田の土屋只狂(つちやしきょう)や尾花沢の柴崎惟中、林崎の壷中(こちゅう)でした。尾花沢俳壇はその門下である鈴木二涼(にりょう)・沼沢林泉(りんせん)・石井一笑(いっしょう)などの活動がみられました。
 さらに文化・文政期(一八〇四~二九)には楯岡の高梨一具(たかなしいちぐ)の活動がめざましく、温雅清純な作風と俳画でよく知られ、多くの門人を指導しました。門下に大石田の二藤部一羽(にとうべいちう)・同丘雨がいますが、尾花沢はむしろ酒田の常世田長翠(とこよだちょうすい)の影響が強かったようです。
 幕末から明治に至っては柴崎藻鏡(もがみ)・鈴木情楓(せいふう)・鈴木雪堂(せつどう)・鈴木訥言(とつげん)などが輩出し、尾花沢俳壇の命脈を守りました。

 『奥の古道」

  芭蕉来訪から半世紀を経ると、時代は清風や素英の孫か曾孫の時代となります。その頃の尾花沢俳壇の中心的俳人は鈴木東籬(鈴木又左衛門家、清風家の分家にあたる)、同東水(富士城屋)、上石柳水らで、元禄時代に次ぐ俳壇隆盛期でした。
 寛延三年(一七五〇)、東籬編の『奥の古道』が鈴木久左衛門家に伝えられています。『奥の古道』は、納涼庵東籬と苞桑閣東水の二人が、尾花沢から山刀伐峠を越えて平泉に往復した吟行と紀行文です。その帰途に、芭蕉にあやかってか、石巻にも寄り道しています。その書出しは、「富て浮楽をにくむものハ、東籬君、頃ハ卯月のはじめなりしが、みちのく数所の名蹟に笠をかたむけ昼ハ飢禽響幽谷寒藻舞淪の光景を愛し、夜は接詞人賦華屋の多情をたのしむ風人也云うべし、車賑につながれざるは発行羨の謂 深く餞別し侍る。
  笠とりて雨を茶に汲め苔の華 陶柳(とうりゅう)
奥の細道と聞へし古翁の足跡を慕ひたもふをうらやみて
  ほそ道をまた踏み分けよ夏木立 林泉(りんせん)
 東籬先生みちのくのふるき跡を尋むと、旅立たもふを見送って、(中略)みちのく荒湯に浴さんと思立て、苞桑閣の主 行ふて、ついでに奥のふるび道をたどらんと、笠よ杖よと旅硯に誌て、寛延三のとし、かの午の卯月はじめつかた、にわかにわらじふみしめて」とあり、文章は『おくのほそ道』に倣っています。
 『奥の古道』の旅は、芭蕉来訪のあと美濃派の活動もあり、芭蕉への思慕や回帰が強くなってきていることを示すものでしょう。
 元禄~宝暦期(一六八八~一七六三)は、尾花沢俳壇の最盛期であり、他を凌駕するまでに発展しました。しかし、俳人の多くは裕福階層で、言語遊戯の面白さに興じながらも、どこか余技の意識が払拭できませんでした。

「おくのほそ道」尾花沢 ③尾花沢俳壇の歩み 尾花沢市歴史文化専門員 梅津 保一

九 尾花沢俳壇の歩み

「広く出羽の俳諧は、まず最上川上流に顕れる。その典型は尾花沢の鈴木清風である。」(『酒田市立光丘文庫俳書解題』)。尾花沢は出羽国で最も早くから俳諧が根づいた土地でした。

 大淀三千風(おおよどみちかぜ)と清風

 大淀三千風は、伊勢国飯野郡射和(いせのくにいいのぐんいさわ・現在、三重県松坂市射和町)の伊勢商人の出です。本姓は三井氏、名は友翰(ゆうかん)、自ら大淀氏と称しました。別号は、梅睡庵(ばいすいあん)・無不非軒(むふいけん)・湖山飛散人(こさんひさんじん)・寓言堂(ぐげんどう)・呑空居士(どんくうこじ)・東往居士(とうおうこじ)など二十数種をもっています。寛永十六年(一六三九)に生れ、宝永四年(一七〇七)六十九歳で没しました。編著には『日本行脚文集(にほんあんぎゃぶんしゅう)』『仙台大矢数(せんだいおおやかず)』『法語(ほうご)三人物語』『鴫立沢(しぎたつさわ)』『倭漢田鳥集(わかんでんちょうしゅう)』などがあります。
 はやくも十五歳の春から俳諧に親しみ、行脚を志ました。寛文九年(一六六九)剃髪、仙台に赴き、松島雄嶋の庵室に十五年間滞在しました。天和三年(一六八三)四月四日仙台を出立し、七年間にわたって全国を行脚、その紀行を元禄三年(一六九〇)にまとめたのが『日本行脚文集』です。
 清風との出会いは古く、三井家の出店が羽州村山郡東根にあった関係もあり、三千風が寛文二年(一六六二)頃に、尾花沢を訪ねています。清風撰『誹諧おくれ双六』いなむしろや『稲莚』に彼の句もみえるし、三千風撰『松島 望集』には、清風及び母(釈尼妙良)の句をのせています。

『日本行脚文集』貞享三年(一六八六)の条に、
 
 暮秋念最上延沢。銀山のふもと。尾花沢に着ク。當所にハ予が好身。古友あまたあれば。三十餘日休らひ當所の誹仙。鈴木清風は古友なりしゆへとぶらひしに。都 に鞭し給ひ。いまだ関をこえざりしとなん。本意なミながら一紙を残す。記は略ス。

   (中略)

おくのほそ道」研究 もくじ

 「村川素英生前墓」<上町観音堂境内>

 大淀三千風の甥で、若い頃から尾花沢に住み、俳諧は初め清風に師事したが、後には尾花沢蕉門の中心的人物になる。「おくのほそ道」紀行で尾花沢に滞在した芭蕉と曾良の接待役を勤めた。

上町観音堂・村川素英の生前墓

米沢西江又

 菊谷(洗花亭 飯澤傳左衛門)

米沢川井村

 月山(眞如亭  桃源院)

米沢糠野目

 月窓(耕福寺)

 箏牙(不忘庵  大丸屋一次郎)

 松華(徳齊    富澤屋勘兵衛)

米沢矢ノ目

 月松(新井庵  小関三郎左衛門)

 二見(波月庵 佐藤與右ヱ門)

米沢黒沢

 清歩(牡丹園  渡部清右衛門)

 風夢(貢雪堂 渡部利吉)

米沢宮内

 一浩(梅園舎 渡邉新弥)

米沢大塚

 一草(波顔  高徳寺)

 朶峯(無極  高橋九兵衛)

米沢荒戸

 一素(涛々舎 大貫忠兵衛)

 友丸(高山友治)

 友于(曦峯    加藤俊庵)

 桂谷(斜流舎 芳賀幸右衛門)

 洗旨(容膝舎常庵 加藤三之丞)

 川丈(稽室    紺野源兵衛)

 男也(高山勇太)

 不石(桑圃  清水屋惣三郎)

 峯丸(雁来舎 午睡庵 高山甚左衛門)

 里風(花生亭 小松土佐次)

米沢産雲水

 清井

谷 沢

 周谷(木村吉十郎)

漆 山

 
羽人(半澤九郎右衛門)

 二丘(桃皐亭  半澤久次郎)

寒河江

 一巣(一巣舎  二藤喜八)

 可玖(猿蓑庵  渡部吉次)

 匡芝(月山梺  大久保丘蔵)

 自来(花鯨庵 遠藤龍助)

 南窓(翠谷庵 安孫子久左衛門)

長 崎

 岩月(流露亭 秋葉弥右衛門)

野泉(細道庵 秋葉弥次右衛門)

長崎端文右衛門新田

 旭峯(雄道庵  服部文右衛門)

大 谷

 如松(登旭亭 白田忠三郎)

 川澄(壁翠庵 川村仁兵衛)

吉川村

 双甫(蛙聴庵 有澤英吉)

 松和(華明庵 笹嶋左衛門太郎)

最上稲沢

 似湖(月逎家 工藤虎吉)

 稲州(葎茶園  工藤三九郎)

 梅周(些庵  工藤儀蔵)

 

 蘆葉(臥牛庵 文清坊 大寶院)

出羽雲水

 蒼山(栗之本住)

六 田

 雲外(雪窓齊 丸野永耕)

柳西道村

 可保(菅原桑司)  

楯 岡

 水竹(水竹居 日新軒 三澤文庵)

 豊丘(夏雨齊 辻村旦司)

土生田

 蒼山(遠藤慎七)

尾花沢

 一奇(清閑齊 安西精一郎)

 藻鏡(霽月亭  柴崎作次郎)

 雪堂(子城  鈴木五郎治)

 文想(稿園    鈴木久左衛門)

 凉居(砕錦    鈴木宇平)

 訥言(士毅    鈴木貞一郎)

庄内五日町

 花佛(米水    佐藤氏)