幽嘯撰『つなきはし』

 歌仙「すゞしさを」と歌仙「おきふしの」の二巻は、須賀川の等躬の後裔である相楽家に伝来したものを同地の石井雨考が発見し、幽嘯がそれを写しとって、幽嘯撰『繋橋』(文政二年刊か)に収めて出版しました。
 この歌仙二巻は曾良の「書留」等に見えず、後世に知られたためこれを存疑とする説もあります。しかし、歌仙「すゞしさを」の発句は、『おくのほそ道』にも見えるし、内容にも疑わしいところがなく、新庄の風流が俳席に加わっていることからも、尾花沢での歌仙と信じてよいといわれています。
 風流は、「曾良随行日記」(前掲、『おくのほそ道』角川ソフィア文庫所収)の五月二十四日の条に「新庄渋谷甚兵へ 風流」とその名が見え、二句だけで退席しています。
 また、同じく五月二十五日の条に「(前略)連衆故障有テ俳ナシ」とあり、尾花沢での俳諧の興行を暗に示しています。すなわち、連衆に故障があり、この日は俳諧の続きを興行できなかったと読みとれます。
 発見者の石井雨考は俳人で、通称を勝右衛門、別号を夜話亭といいます。文政十年(一八二七)七月六日に七十九歳で没しました。奥州須賀川の人で、俳諧を二階堂桃祖に学びました。本邦銅版画の始祖亜欧堂田善の銅版画一葉を挿入した編著『青蔭集』〈文化十一年(一八一四)刊〉があります(矢部榾郎『福島県俳人事典』(昭和三十年 同書刊行会)
 わすれずや、磐手の山にとしをかさねし雲遊の幽嘯、すか川の駅に、かの軒の栗を拾ハんとむつみあそぶことすでに九十余日、郭公老の古聲、ふるきをしたふこころはへも朝夕になれしられて、こゝに相楽何某といへるハ、そのかみ等躬が子孫なり、此家に自記の反古どもを蔵し置るを、やつかりもとめ出て見す、幽嘯よろこびにたへず夜のともしのかげかりて、そここゝ是を写し置り、しかるを此秋めぐりて、むさしの國にいたり、を花が末のまくらがみになさんことのうらめしくや、それが中に其世のはいかい二巻はへるを露ハがりのとぢものとはなしぬ、ハたとぢものゝ名をつなぎ橋と題す、これやミちひく猿にまかすといへる古翁の手に手をにて、つなげるなるべし、つなぎつなぎて、なほこのゝちものこれる反古をあらハさんこゝろざしはヘりとか、奥の細道ほそきむかしにたどらん人々そのはしはしをもつなぎたまヘといふ  

             
                                        石井雨考

    八彦妙太郎幽嘯法印画丈  楳園平角
     弥彦妙太郎様                 雨考
               要用

 越後国やひこ山の大天狗を八彦の妙太郎どのといふ、幽嘯の大がらなるが、それにかりたらんと梅園平角儀のざれ事せしより宇治の橋守きゝわたりて、やひこどのやひこどのとハ呼ならいけん、玉だれの釣簾のすきかげにも獨鈷かま首のされことハ侍りけり、かのやひこどの須加川の駅に二まきの誹かいを拾ひし時、かゝるもの侍りと梅園に告遣りける、その返り事に麻の家、我が宿のふたまき先師重厚老人おりおり口号セられしものなり、上本のゝちとくとく栗津の文庫にもおさめ給えるべし云也この平角ハうるはしく、師恩をわすれざる人なり、雨考なれ、平角なれ、杖にもはしらにもたのむなる、人々のしほし着セたる妙太郎の由来をもの語すべしと、夫がし小天狗におゝセらるゝぞ、いとわりなき

                    菜翁巣兆    

 むかし清風がひとつ橋は、かのなにはの浦にあからめもせずといへる見所ある集なりしを、今また翁の附句をはしはしらとたのミ、人々の心の水の二もてにまかせ、板うちわたして、つなぎ橋をいとなむ、こしの国の幽嘯これにかたぬぎて、おほのこぎりのひき屑をえらみ、うつすミなはにまかれるをただし、清かんなにみがきあげたり、此みちに足をいるゝ人、だれかは是をふミ見ざらむや、たれかハおもひわたらざらむ

                    随斎成美跋 

                     (尾花沢市 大類 勉氏蔵)

『おくのほそ道』の旅中で興行した歌仙

  l  まぐさおふ(那 須 翠桃宅)

  2  風 流 の(須賀川 等窮宅)

  3  かくれ家や(須賀川 可伸庵)

  4  すずしさを(尾花沢 清風宅)

  5  おきふしの(尾花沢 清風宅)

  6  さみだれを(大石田 一栄宅)

  7  御 尋 に(新 庄 風流亭)

  8  有 難 や(羽黒山 本 坊)

  9  めづらしや(鶴 岡 重行宅)

 10  温 山や(酒  田 不玉亭)

 11  あなむざんやな(小松多太神社)

 12  馬 て(山 泉)    

 13  は 咲(大 垣  左柳亭ヵ)

 歌仙は懐紙二枚をそれぞれ二つ折にし、その表と裏に六句または一二句ずつ、記します。

 歌仙一巻中には、必ず月の句を三句、花の句を二句詠まねばならないことになっています。その場もほぼ一定していて、月の定座、花の定座と称しますが、実際に当たってはその場所は臨機応変であってさしつかえありません。また恋の句も一巻中に少なくとも一か所で詠まなければなりません。恋の句は一句だけで終わらせず、二句以上五句まで続けるものとされていましたが、芭蕉は一句だけで終わる場合があってもよいと考えました。
 一巻の最初の句を発句、第二句目を脇、第三句目を第三、最後の句を挙句(揚句)といい、その他の句を平句といいます。発句はその季節に従って季語を詠み、脇は発句と同じ季節にします。春と秋の句は三句ないし五句の範囲で続け、夏と冬の句は一句でやめてよいが、二句続けることも多く、三句まで続けることが許されます。季語のない句は雑の句といいます。 
 四月二十九日に須賀川を出てから尾花沢に着く五月十七日までは、さしたる知り合いもなく俳諧の興行もありませんでした。尾花沢には、旧知の鈴木清風がおり、清風を取り巻く地元の俳人たちの歓待を受けて、五月二十七日朝まで滞在しました。

  尾花沢は、幕府代官所北限の陣屋町であり、羽州街道の宿駅と大石田河岸に隣接しているという地理的条件にも恵まれて商業活動がさかんな地域であり、俳諧も流行していました。
 清風は、これより先、貞享二年(一六八五)六月二日と翌三年三月二十日の二度、江戸で芭蕉らと俳諧を興行しています。貞享二年六月二日に江戸小石川で興行した芭蕉と清風の最初の俳席は、「賦花何俳諧之連歌」の七吟百韻でした(『芭蕉翁古式之俳諧』天理大学図書館蔵)
 芭蕉は、『おくのほそ道』紀行中に尾花沢で鈴木清風らと歌仙「すゞしさを」と「おきふしの」二巻を巻いています。
 歌仙「すゞしさを」の芭蕉の発句「すゞしさを我がやどにしてねまる也」は、『おくのほそ道』に収めています。「おきふしの」の巻では清風が発句を詠んでいますから、このほうが後に満尾したと考えられます。

  尾花沢での歌仙は、芭蕉・清風・曾良・素英に新庄の風流(二句だけ)という、ごく内輪の俳席でした。清風宅に着いた五月十七日から十八日、二十二日、二十四日に清風宅で興行されたと考えられます。満尾したのは、おそらく五月二十七日に清風宅から立石寺へ赴く間際だろうと推定されます。
 尾花沢での歌仙で目立つことは、芭蕉と曾良の土地の風物伝説などに寄せる関心の深さです。地元の俳人も含めて自己の生活体験や知識がふんだんに取り入れられています。

七 尾花沢での歌仙

 芭蕉の諸国への旅は、各地の俳諧愛好者によって支えられていました。この文芸の担い手がすでに三都( 江戸・京都・大坂 )以外にもひろく存在していたことは、注目に値する事実です。
 宿場町の繁栄などで旅が楽になったことと、風雅の文人の旅の増加と、そして地方の小都市にこれを迎えて俳諧や和歌を楽しもうとする気運の高まりとが、たがいに原因とも結果ともなって進行していきました。
 土地によっては元禄ごろから流行したという、前句付などの俳諧風の遊びもあって、教訓の表現にも利用されていました。それ自体は、文字を知らなくてもできる遊びでしたが、文字文芸への誘いになりました。そして文字を知る者の増加は、村のなかで経験によって蓄積された知識や処世の術に対してひろい世間からの知識の有効性を主張していきました。村の指導的な地位に立つ上でも、役所向きの交渉や文書作成能力とともに、そうした知識が有効でした。
 俳諧や和歌は、文字の用法をひろく知る機会になりましたし、これを通じてひろい世界からの知識を吸収する場にもなりました。遠方からの文人たちは、彼らに歓迎されたのです。鈴木清風家では、俳諧師等の来訪者をしきりに迎えていたと考えられます。
  俳諧は、近世文芸のなかで人々にもっとも親しまれていたといえます。老若男女・身分を問わず、だれもが作者として気軽に参加できたからです。
  中世には連歌が流行していましたが、近世に入ると、滑稽味を重視した俳諧(連句)に取って代わられます。特に、芭蕉が樹立した蕉風俳諧は、それ以前の貞門・談林派の言語遊戯的な性格を離れ、詩情豊かな庶民の詩となりました。現代までつづく俳諧の盛行は、芭蕉がもたらしたものといってもいいでしょう。
  連句は、一人で詠み連ねる独吟を除いて、複数の作者が互いの個性を刺激しあいながら、共同でつくりあげる文芸です。「涼しさを我が宿にしてねまる也」、現代では一般に「俳句」と呼ぶこのような五七五の句も、本来は連歌や連句の最初の句を意味する「発句」と呼ばれてていました。この発句を第一句目として、順次、前の人の句を受けて付句を詠んでいきます。そして、二つの句の間に生じる世界を、味わい楽しむのです。つぎつぎに詠み重ねられる新しい世界は、どのように展開するか予想できませんが、結果として変化に富んだ「一巻」として織りあげられます。一巻の句数は、連歌以来、一〇〇句連ねる百韻がふつうでしたが、芭蕉のころには、三六句の「歌仙」が主流となっていました。
 作品の出来具合は、一座の参加者(連衆)や雰囲気に左右されるもので、きわめて偶然性の高い文芸です。作家個人が作品に対し全責任を負うという、近代の芸術観からは計り知れない特殊な「座の文芸」です。
 「おくのほそ道」の旅の出発直前、元禄二年三月二十三日に岐阜本町の商人安川助左衛門(俳号落梧)あての芭蕉書簡(三国路紀行文学館所蔵)に、「みちのく・三越路の風流 佳人もあれかしとのみ候」とあります。「風雅」の伝統を探ると同時に、都市の華美に染まらぬ未知の俳人とめぐりあい、それらの人びとと歌仙を巻くことができたら、という大きな目標がありました。
 元禄二年四月二十六日、須賀川の等躬亭に滞在中の芭蕉は、江戸の杉風あてに手紙を書いています。黒羽以後の旅の様子や今後の予定などを詳しく知らせています。

 

遊女の手紙

 『本阿弥行状記』という本があります。京都の本阿弥光悦、その孫の光甫や、その他の本阿弥家の人々の手記した見聞記を本阿弥光春(宝暦八年〈一七五八〉没)が整理編輯したものが原本となって、世に流布したものです。その中巻の八十五段に、

俳諧風景

「養泉寺周辺の旧羽州街道から月山を望む」

 芭蕉と曾良は尾花沢滞在10泊のうち清風邸に3泊、残り7泊を養泉寺に宿った。養泉寺には、地元の俳人たちが入れ替わり立ち替わり出入りし、さまざまに持てなした。

 寺の境内から坂下を見下ろすと、水田が一面に広がり、北西に鳥海山、西に葉山、月山が美しく見え、高台にあるため涼しい風が吹きぬける。

「誹諧一橋」(貞享3年刊、尾花沢中学校所蔵)
 正徳元年12月、清風(道祐)は隠居するにあたって妻と二男以下の子供を連れて分家する形をとっている。清風は配偶者に恵まれず、4人の妻を迎えているが、最晩年の妻おかやとの間に生まれた子供への家産分与を考慮している。後半の文言は家訓的遺言。

 日本の生んだ“座の文芸”(連句)は長句(5、7、5)と短句(7、7)を付合い、限りない想像力の広がりを楽しめる。
 芭蕉の句は、一句で終わらず、三十六句の歌仙として残されている。
 芭蕉は心血をそそいで、連句を芸術に高めた人物である。芭蕉が「おくのほそ道」紀行中に興行した歌仙は12巻、そのうち2巻を尾花沢で巻いている。

幽嘯撰『つなきはし』

柿本人麻呂像(鈴木正一郎氏所蔵)

 清風は一策を案じ、品川海岸において紅花荷物をことごとく焼き捨てました。
 清風伝説にいう江戸吉原の三浦屋高尾太夫から贈られたもの。※毎年7月3日から10日間程度の期間限定で公開
「紅花大尽」伝説

 この後に遊女が「最上の某」の子息へあてた手紙を記しています。長文のため要約しますと、「あなたは国元では高名な方、廓内でも誰知らぬ者のないお方です。しかし、この頃あなたの立居振舞を見ておりますと、廓の風儀が身についてしまったようです。廓の真似事はおやめなさい。私は好きで廓勤めをしているわけではなく、親が貧しいために前世の約束事と思ってあきらめているのです。かねてから約束しておいた緋縮緬の襦袢を差し上げますが、人の中でぬぐ事はおやめなさい。なお、橋立の松と称する香合もおあげします。」
 この手紙をもらった「奥州最上の某」の子息は、遊女の意見に従いました。その後、この遊女は身請けされて子息の妻となり、二人で本阿弥家へお礼に参上しました。「奥州最上の某、紅花をひさぐ大に富る商人」が誰にあたるか、一読して直ちに考えられるのは、鈴木道西とその子清風ではないかというのです。本阿弥光南が清風の若い頃の生活と、遊女の美しい心根を書き留めたものと思われます。
 前の「紅花大尽」伝説には、高尾太夫が出てきます。「本阿弥行状記」にある記事が「紅花大尽」伝説を背景として成立したのか、または、「紅花大尽」伝説が「本阿弥行状記」からその素材を得たのか、いずれにしても興味をそそられる内容です。

※ この項は、尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風 -おくのほそ道・尾花沢-(芭蕉・清風歴史資料館 昭和五十八年七月三日発行)によるところが多い。

 奥州最上の某、紅花をひさぐ大に富る商人にして、其性賎しからず。予とも年久しき刃物のこと、又は茶事にても、度々往来もいたせし事なり。一両年以前より、子息親父の代として上京、先代の因み故、同断にねんごろなり。去年江戸逗留のせつ、右子息旅宿へ尋ねしに、若き事ゆえ、夜々遊女へ参らるる趣なり。酒なども出て後予に申さるは、近比老人へ対し失礼がましく候へ共、この文を御覧可給(中略)、可否の事分り兼候よしなり。何か先代よりの懇意の貴家の事、老人が見て分る事に候はば、随分可否を可申と、遊女の文を見候に、其用文の所長き故、前後は 之、

「 清 風  伝 説」

 芭蕉と清風との出会い

 『奥細道附録菅菰後考』(文政十二年刊)に、清風が江戸で友人たちと花見をしたとき、禅門風の老人が茶店のむしろ一枚借りて、一人わびしげに花見しているのを見て、清風は酒肴をすすめてもてなしました。老人はその謝礼にと「花咲て七日鶴見るふもと哉 翁」としたためた短冊一枚をくれました。しかし、清風は、返すべきようも知らず当惑し、「我ら此短冊得申 処、御存之通にて挨拶に当惑いたし候間、宜しく頼入候」と懐紙に書き、脇句を案じてひそかに贈りました。ところが、老翁は、よくできたとほめながら、「懼ぢて蛙のわたる細橋 清風」と添削して書き、「清風がつたなき」をつくろってくれました。この老翁は、すなわち芭蕉であり、これが縁で清風が芭蕉の門人になったというのです。

※  この項は、尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風―おくのほそ道・尾花沢―』(芭蕉・清風歴史資料館 昭和五十八年七月三日発行)によるところが多い。

  「紅花大尽」伝説

 元禄十一年(一六九八)年夏、清風がいつもの通り紅花荷を江戸に上せると、江戸商人たちは不買同盟を企て密かに捨て売りを期待しました。これに対して清風は一策を案じ、品川海岸において紅花荷物をことごとく焼き棄てました。紅花値段は、にわかに暴騰して二〇〜三〇倍にも上りました。ところが、清風の焼却したものは実はカンナ屑を染めた偽物で、本物の紅花荷物は倉庫深く秘められていました。そのため清風は一獲三万両の利益を得ました。
「紅花大尽」といわれた清風は、屋号の島田屋から取って自ら島田重三郎と名乗り、しばしば吉原に遊び、当時、仙台藩主伊達綱宗の恋人として有名な三浦屋の高尾太夫とは、とうから意気相通じ、深い馴染を重ねていました。これを知った伊達綱宗は、金力で意地を張り、暴力で威嚇し或はまた権柄づくで誘惑しようと努めました。しかし、町人の重三郎と遊女高尾との絆は、大大名の力でもっても断つことができませんでした。
 清風は紅花を売って獲得した三万両は、「尋常の商法で得た金ではない、江戸っ子を騙して得た金を持ちかえったのでは、この清風の男が立たぬ、いっそ吉原でこれをきれいに打撒いて、金で身を苦しめているあわれな人びとを慰安してやろう」と思いました。三日三晩、吉原の大門をとざして、稀代の豪遊をおこないました。
 高尾は、ますます清風の意気に惚れ込みました。清風が帰国の時に、高尾は別離を惜しんで伊達家の家宝六歌仙の一品であった柿 人麿の伽羅の木像と「君は今駒形あたりほととぎす」と自ら詠んでしたためた短冊とを清風に贈りました。
 鈴木家では、明治十五年(一八八二)屋敷の北西隅に小さな祠を建て今でも人麿像を祀っています。毎年五月十八日にささやかな祭祀を行ない、芭蕉の尾花沢滞在ゆかりの七月三日から十三日まで、芭蕉・清風歴史資料館で人麿像を公開しています。
 伊達綱宗は巨万の財力で高尾太夫を身受けしました。しかし、遊女としての高尾の肉体は購うことができましたが、人間としての高尾の までも占有することはできませんでした。
 高尾の胸はもちろん清風を恋慕う焔でひたすら燃え立っていました。それを不満に思った伊達綱宗は、隅田川の舟の中で高尾を斬殺してしまいました。
 清風はいたくこれを歎いて、元禄十二年(一六九九)高尾太夫追善のために尾花沢に念通寺を建立し、厚く彼女の菩提を弔いました。
  この伝説は人間の本能を肯定し、武士によって卑しめられていた営利活動を認め、財力によって何事もなしとげられるとする元禄商人の自信を代弁しています。

長井雪堂作『映畫脚本 紅花大盡』(大正十三年八月二十五日発行)を参考にしました。

清 風 の 遺 言

 清風は、享保六年(一七二一)一月十二日に七十一歳で没しました。六十一歳の正徳元年(一七一一)十二月長男八右衛門に遺言を書いています。
 その前半には隠居するに当っての二、三男以下への家産分与を記しています。隠居した道祐(清風)が妻と二男以下の子供を連れて分家した形をとっています。清風は配偶者にめぐまれず四人の妻を迎えていますが、最晩年の妻おかやとの間に生まれた子供への家産分与も考慮しています。

    譲り状之事

                    八次郎
一、金五千両              八三郎

一、金五百両            當年性ノ子

    但當年性ノ子性長不致候ハバ、有金其方
     へ請取可被申候

一、金五百両              おゑん

    但當暮より金百両宛五ケ年ニ相渡可被申
   其内縁付申候ハバ、其節不残相渡可被申候

一、金三百両              おなき

    但當暮より金六拾両宛五ケ年ニ相渡可被

   申候

一、与次右衛門屋敷                      八三郎


一、与平次田              同 人


一、六蔵畑               同 人

一、与平次屋敷           當年性ノ子

   外玄仙屋敷畑共ニ不残

一、二藤袋万九郎田           同 人


一、与平次畑              同 人

一、荻袋九兵衛田                  道 祐

                               おかや

一、諸道具之儀ハ、一ツ土蔵ニて、入所無之候間入用之時
 分ハ取寄遣可申、當分入方勝手廻り道
具斗遣可被申候

一、御公儀様義、第一大切ニ可仕事勿論也 

一、運上沙汰之儀、先祖より嫌ニ候間、堅取組申間敷事

一、御役金出候物、無役ニてハ関所相通間敷事

一、御法度物、一切商賣仕間敷事

一、新田手前之地績持来候田畑は各別、外御公儀様へ御願、
 當領・御私領共ニ一切致間敷事

一、金銀銅山ならびに材木山、一切致間敷事

一、惣て一村徒盗(党〉之儀有之候共、此村双立之仁、御
 百性数多方へ印判可致候

右書置之通、相守可被申候 以上

                  道 祐 印

  正徳元年卯極月

      八右衛門殿

                                        (鈴木八右衛門家文書、鈴木正一郎氏蔵)

 後半には、家訓的遺言七か条を記しています

@公儀(幕府)を第一に大切にする。 A運上沙汰は先祖より嫌いだから固く取り組まない。B荷物を無税で関所を通さない。C禁制品は一切売買しない。D新田開発を願い出ない。E鉱山および材木山経営は一切行なわない。F一村徒党の場合は、村の重立や百姓の多数派に印判する、と要約できます。
 この遺言で冒険や一獲千金を戒めているのは、鈴木家の基礎もかたまり、守成の段階に入ったことのあらわれでしょう。遺言と清風にまつわる伝説とはあまりにも対照的です。

※ この項は、尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風―おくのほそ道・尾花沢―』(芭蕉・清風歴史資料館 昭和五十八年七月三日発行)によるところが多い。

誹諧おくれ双六(延宝9年刊、尾花沢中学校蔵)

   鈴 木 清 風

  鈴木清風は通称八右衛門(三代目)、諱を道祐といい慶安四年(一六五一)に生まれ、享保六年(一七二一)に没しています。清風は俳号です。
  清風は、若いころから商取り引きで京都や江戸に出る機会が多かった。清風撰の俳書『誹諧おくれ双六』(延宝九年刊)の自序に、「花の都にも二年三とせすミなれ古今俳諧の道に踏迷ふ」とあります。また『誹諧一橋』(貞享三年刊)の友静序文に、「これ陸奥の住鈴木清風俳諧の修行者となって、都・江戸とわたりつくし」とあり、商取り引きのかたわら俳諧に親しんだことがわかります。
 清風は三十一歳から三十六歳までの間に『誹諧おくれ双六』(延宝九年〈一六八一〉刊)・『稲 莚』(貞享二年〈一六八五〉刊)・『誹諧一 橋』(貞享三年〈一六八六〉刊)の三冊の俳諧撰集を刊行し、その若さですでに天下の俳諧師として立派な業績を残しました。京都や江戸の一流の俳人と伍し、俳聖松尾芭蕉と接触するなど、その俳諧は田舎金持の旦那芸ではなく、出羽俳壇の中心人物でした。

前略 )白川ノ関、廿一日に越え申し候。白川より六里、須加川と申す処に乍憚と申す作者、拙者万句の節、発句など致し候付にて、伊勢町山口左兵衛方の客にて御坐候。是を尋ね候ひて、今日廿六日まで居り申し候。大かた明廿七日、又発足致すべく候。是より仙台まで風雅人もえ見えず候よし。朔日二日の比仙台ヘ付き申すべく候。三千風仙台へ帰り、むざとしたる荒れ俳諧はやり申し候沙汰これ有り候。仙台の風流、望み絶え申し候。あれより秋田・庄内の方、いまだ心不定に候。大かた六月初め、加州へ付き申すべく候。出羽清風も在所に居候よし、是にもしばし逗留致すべく候。いまだ此辺、朝晩さむく御坐候へ共、是迄は皆宿能候故、万事に不自由御坐無く候。(以下略)
  卯月廿六日                  

                                     桃 青
          杉

弘誓山(ぐぜいざん)養泉寺

 残月軒清風のはじめての俳諧撰集。芭蕉は、桃青の号で「郭公まねくか麦のむら尾花」の句を寄せている.。

『稲 莚』

 貞享二年(一六八五)に京都井筒屋庄兵衛板で刊行したものです。才麿の序文には「尾花澤清風之一草號で稲莚といふ。其心を探るにちかきあたりや、最上川いねつミ舟に因ミてのいゝならむ。前集後レ雙六に自他の句を淅ス。年去体かハりて味さらに淡し。今又筆ンテを鍼水に耕して豊年の好語を得たり。」とあります。
 俳人も三百七十余名とひろがり、七百八十三句を四季別に分類し、巻尾に自己の独吟歌仙四巻を配しています。入集している著名俳人では、言水・幽山・調和・才麿・信徳・由平・西鶴・不ト・其角・挙白・高政・春澄・素堂・松意・三千風がいます。特に多く入集しているのは言水四十句、調和八句、幽山七句、才麿六句、不ト五句地元羽州の松田未覚二十六句、村川残水十三句です。
 『おくのほそ道』に関係する俳人では、等躬十二句・北枝二句・不玉六句・三千風一句・一栄九句・一中十一句・遊川八句・似休十一句です。当時の俳壇、ことに地方俳壇の情勢を知る上で、また、『おくのほそ道』の理解に資する上でも参考になる点が多い作品です。

『誹諧一橋』

 貞享三年(一六八六)に京都の井筒屋庄兵衛重勝板で刊行したものです。題箋を「飛登津橋」とした本もあります。序文は、京都の俳人友静が「これ陸奥の住鈴木清風誹諧の修行者となりて、都、江戸とわたりつくし、これかれいひかハせし巻十にミちたるを板行して」と書いています。
 京都では一晶・如泉・言水・湖春・信徳・仙菴・素堂、江戸では調和・芭蕉・立志・才麿・其角・挙白・嵐雪・コ斎(浅野野水)・曾良など、当時の著名俳人と興行した歌仙十巻、それに百韻の表八句のみを収めた連句集です。それに百韻の表八句のみを収めた連句集です。
 芭蕉の一座したものに、「三月廿日即興」として、芭蕉の発句「花咲て七日鶴見る麓哉」、清風の脇句「懼て蛙のわたる細橋」、挙白第三、以下、曾良・コ斎・其角・嵐雪の連衆で巻いた歌仙があります。これは、前年の六月二日に芭蕉・嵐雪・其角・才丸(才麿)・コ斎・素堂が清風を歓迎して興行した「賦花何俳諧之連歌」(古式百韻)に続くものです。なお、古式の俳諧とは、清水寺に伝えられたもので、「清水連歌」といい、表十句、名残の裏六句とするものです。
 「賦花何俳諧之連歌」の百韻は、芭蕉と清風の最初の俳席であり、古式百韻を知る上でも貴重な連句です。
 享和三年(一八〇三)に蕉門書林が刊行した『芭蕉翁古式之俳諧』の序文には、「祖父芝嵐ハ羽ノ鈴木清風の門人にして、芭蕉三世の俳家なり。今世に翁の古式をもてるもの、尺艾詞宗にとゝまれり。此書帋魚のためにむなしくなさんことをなげき、はやく桜木にあらハせよとひたすら進めすゝむるものは東武五色墨の一人二六庵竹阿なり。天明元年(一七八一)二月」とあり、失われることを心配した竹阿がしきりに撰者の尺艾に出版をすすめたことがわかります。
 「古式百韻」の前文には、「根本式はいかゐならびに文臺式は出羽國尾花沢なる雨林究のあるじ清風てふより我祖父芝嵐につたふ。此外一ツはし十三歌仙有、洛ノ友静が序にて、洛ノ井筒屋庄兵衛梓なり、今ハなし。古板ハ赤き表帋ニて貞享三トしるせり。則雨林究より芝嵐へおくり来るふミと集と今に我が家に有。其後清風芝嵐両吟の續一ツ橋有。東都西村何某が板なり」とあります。
 したがって、この「古式百韻」は、清風が門弟の芝嵐へ贈ったという本巻の伝来をよく知ることができます。

 清風が京都や江戸の著名俳人たちと興行した歌仙10巻、それに独吟百韻の表八句のみを収めている。

鈴木清風の俳諧書「誹諧おくれ双六」「稲筵」「誹諧一橋」

 鈴木清風は、31歳から36歳までの間に3冊の俳諧選集を刊行している。その若さで天下の俳諧師として通用する立派な業績を残した。

 尾花沢での歌仙「涼しさを」の表四句を刻んだ「芭蕉連句碑」(養泉寺境内)

譲り状之事(鈴木正一郎氏所蔵)

 「紅花大尽」鈴木清風は、元禄期の出羽国を代表する豪商で、風雅にも心を寄せた人物でした。

清風撰の俳諧書

『誹諧おくれ双六』

 鈴木清風の処女撰集です。延宝九年(一六八一)の刊行で、本文四十六丁です。自序に、「花の都にも二年三とせすミなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ、近曽より漸新しき海道に出て諸人をまねき、四季折々の佳作を得るといへども、皆先達の悌ありて」と記しています。清風が俳友約百五十名から得た談林新風の発句三百三十句を四季別に分類し、巻尾に自己の独吟百韻二巻を配しています。
 作者は、京都、江戸、地元羽州の俳人が多く、奈良、河内、和泉、伊勢、紀伊、遠くは対馬の俳人も入集しています。特に多く入集しているのは、京都の友静十三句江戸の言水十二句、羽州大石田の一栄十五句をはじめ、了静、如流、遊川などです。当時、談林新風の京都の高政・信徳・常矩・春澄・友静、江戸の言水・桃青・其角・幽山・露沾・才麿・松意なども入集しています。
 地元では、遊川・一中・一栄・吉直などが入集しています。芭蕉は、桃青の俳号で「郭公まねくか麦のむら尾花」を寄せています。

米倉 兌画「鈴木清風」

「おくのほそ道」尾花沢 A 尾花沢での歌仙 尾花沢市歴史文化専門員 梅津 保一

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