『おくのほそ道』尾花沢の項は、あの恐怖の山越えから一転して、なごやかな場面に切り替わります。連句の手法が、場面展開に巧みに応用されています。
 尾花沢(当時「おばねざわ」とも読んだ)では、親しい俳人で豪商の清風が、芭蕉を温かくもてなしました。居心地がよく、芭蕉は清風らに十日ほど世話になりました。豊かな地方色を満喫した芭蕉は、旅の疲れもすっかりとれ、清風の主催する俳諧を楽しみました。
 芭蕉は、清風の心温まる厚いもてなしに応える挨拶として四句を並べたのです。「ねまる」「飼屋」「眉掃」「古代の姿」という発想が、みちのくの風土に発見した古代への讃歌という形で挨拶の情をさらに深めています。
 「ねまる」とは、あぐらをかいて座る、くつろいで休むことをいう尾花沢の言葉です。たぶん、あるじの清風が「どうか、ごゆるりとねまらっしゃい」とでも言って芭蕉を迎えたのでしょう。その、いかにも東北の風土の質朴さを感じさせる「ねまる」という言葉に、興趣と親しみを感じ、「御好意に甘え、この座敷の涼しさを我が物顔にゆっくりくつろがせてもらっています。」と挨拶したのです。
 この「ねまる」という言葉は、鎌倉・室町時代に使われていた古語で、それが尾花沢にまだ残っていたことに芭蕉は興趣をそそられたのでしょう。
 みちのくの旅であれば、和歌では望郷の思いとか、旅の不安とかを主に詠むのですが、芭蕉は「わが宿にして」と、旅にありながらそこをわが宿にしています。
 次の「飼屋」という言葉も、養蚕室をいう尾花沢の言葉です。同時に、『万葉集』に見える古語で、鎌倉時代にはもう意味がわからなくなっていました。それで鹿を追うために火をたく小屋だとか、蚊やり火をたいて山田の番をする小屋だとか、さまざまな注釈が施されています。「飼屋」という言葉が尾花沢に残っていました。『万葉集』巻十・秋相聞の「朝霞かひやが下に鳴くかはづ声だに聞かばわれ恋ひめやも」の歌そのままにヒキガエルが鳴いていました。そのことに興を発して、芭蕉はヒキガエルに向かって自分の相手をしに出ておいで、と呼びかけたのです。
「紅粉の花」は、『源氏物語』に出てくる末摘花です。 曾良の「蚕飼ひする」の句は、尾花沢の人びとが養蚕の作業の時、モンペに似たフグミ(フンゴミ)をはいていました。フグミは、足をズボンの中に踏み込むことをいう「フミコミ」「フンゴミ」の音がつまったものです 。その姿が埴輪に見る古代人の姿に似ていることを詠んだのです。    
 この句は、須賀川で曾良が詠んだ「蚕飼する姿に残る古代かな」という句を芭蕉が直して、ここに配したものです。                             
 このように見てきますと、『おくのほそ道』尾花沢の項の四句を貫くものは、奥羽山系を横断することによって、出羽の風土、人びとの生活や習俗の中に、古い歴史がそのまま生きていることを発見した喜びだったといえます。

養泉寺に七泊

芭蕉と曾良が七泊した天台宗の弘誓山養泉寺は、梺町の古道(旧羽州街道)にあります。 

養泉寺の建物は、明治二十八年(一八九五)の大火時に類焼し、同三十年に再建されたもので、昔のおもかげはありません。
 養泉寺前の坂道を見下ろすと水田が一面に広がり、北西に鳥海山(二二三六メートル)、正面に大高根山(五四三メートル)・葉山(一四六一・七メートル)・月山(一九八四メートル)が美しく見え、高台にあるため涼しい風が吹きぬけます。旅情を慰めるにふさわしい環境でした。
 養泉寺は、寺伝によれば慈覚大師開基の東叡山寛永寺直末の天台宗寺院です。養泉寺観音院は最上三十三観音第二十五番札所であり、地元の人びとは「古道のお観音さま」と呼んでいます。養泉寺観音の御詠歌は、「おばなざわ/ほとけのみてのいとすすき/てにとるからに/ゆらぐたまのを」です。
 元禄元年(一六八八)、つまり芭蕉来訪の前年に大修理され、木の香も新しく、旅の疲れをいやすには絶好の場所でした。
 養泉寺に、「養泉寺宛、戒善院・大圓覺院書状」が残っています。

 出羽國村山郡尾花沢村弘誓山養泉寺観音院者、慈覚大師之草創而雖為台家、古跡寺院及破壊候處、今般尾花沢檀方寺院修造有之、後々 相續候様可致之旨、以書付訴之、神妙之至也、向後如前々被属東叡山末寺、就者自今以後不背本寺之下知、佛事勤行不可有怠慢之旨、依輪王寺宮御気色執啓、如件

  元禄元年十一月朔日        

                               戒 善 院

                                 玄海(花押)

                               大圓覺院

                                 公雄(花押)

      養 泉 寺

 (読み下し文)

 出羽國村山郡尾花沢村、弘誓山養泉寺観音院は、慈覚大師の草創にして台家たるといえども、古跡寺院破壊及び候處、今般尾花沢檀方寺院修造これあり、後々迄相續候様致すべきの旨、書付を以ってこれを訴え、神妙の至り也、向後前々の如く東叡山末寺に属され、就いては自今以後本寺の下知に背かず、佛事勤行怠慢あるべからざるの旨、輪王寺宮より御気色執啓、件の如し
    元禄元年十一月朔日

戒 善 院

玄海(花押)

                                大圓覺院

                                  公雄(花押)

        養 泉 寺

 養泉寺の新しい仁王門を入って、本堂の少し手前、右手の覆堂の中に宝暦十二年(一七六二)柴崎路水と鈴木素州が建立した芭蕉句碑「凉塚」と「壷中居士」の碑、その後ろに「芭蕉連句碑」があります。芭蕉句碑は、丸みを帯びた自然石に、正面に「凉しさを我が宿にしてねまる也」、側面から背面にかけて、漢文で芭蕉翁の事蹟が刻まれています。

 芭蕉翁桃青伊賀産、氏松尾則前藤七郎也、掌学和歌、晩嗜俳諧、致仕而遊山川勝跡、事題詠以鳴、元禄年中適蚶江過最主清風家居数日、日題日日題、亦題之、書成而曰奥細道也、世以徴之翁寿五十一、以元禄甲戌十月十二日卒於大坂、吾徒窺其門牆者謀不朽、立石以曰凉塚

    宝暦壬午夏日                              路 水
                                       素 州

(読み下し文 )

 芭蕉翁桃青は伊賀の産。氏は松尾、則ち前の藤七郎也掌(のうち)に和歌を学び、晩に俳諧を嗜む。致仕して山川勝跡に遊び、題詠を事として以て鳴る。元禄年中、蚶江に適き、最主(上)を過ぎ、清風が家に居ること数日、日に題し、日日題し、亦これに題して書成る。而して奥の細道と曰ふ、世以てこれを徴す。翁寿五十一、元禄甲戌十月十二日を以て、大坂に於て卒す。吾が徒、其の門牆を窺う者、不朽(ならんこと)を謀って、石を立て以て凉塚と曰ふ。          

   
宝暦壬午夏日                              路 水
                                       素 州

 「壷中居士」碑の壷中は、林崎の素封家坂部氏、山寺立石寺に「せみ塚」を建てた人です。後ろにある「芭蕉連句碑」(昭和六十三年七月十日、奥山譽男・てふ建立)には、歌仙「すゞしさを」の巻の表四句が刻まれています。

封人の家人馬同居の宿

 平泉を発った芭蕉と曾良は、南下して奥羽山脈を越えて出羽国に向いました。『おくのほそ道』では、悲劇に涙した平泉とは一転して、山越えの旅の苦労を述べています。
 尿前の関所は、宮城・山形の県境近くにあり、義経の北の方(妻)が亀割山(山形県最上郡最上町)で出産した若君(亀鶴御前)がここ尿前で尿をしたという伝説があります。
 
梅雨どきの大雨のため、縁のない堺田(最上町)の封人の家に五月十五日(陽暦七月一日)と十六日、 二泊しました。こうした場面の急変ぶりは、むしろ俳諧の妙味を感じさせます。
 
封人の家とは国境を守る人の家のことで、仙台藩領と境を接する新庄藩領堺田村の庄屋有路家であるといわれています。
 芭蕉が泊まった封人の家は、母屋を仕切って馬を飼っていました。馬と家族は、同じ屋根の下に同居していました。馬の放尿する音が聞こえるのも当然です。寒い雪国の農家では、よくある光景です。句の下五の「枕もと」に、芭蕉は驚きと感動を含めました。堺田での「蚤」「虱」「馬の尿」は、和歌の世界では取り上げない素材であり、みちのくの民衆生活に密着したところで、自分の俳諧を発見しています。

 なお、従来「尿」は「しと」と読まれてきましたが、芭蕉自筆の野坡本(※3)には「ばり」と傍訓があり、小児の尿と馬の尿とを使い分けていることが確認されました。馬の尿には野趣満々たる俳味がこもっています。
 堺田の旧有路家住宅は国の重要文化財(昭和四十四年十二月指定)であり、寄棟造り広間型民家の代表的なもので、江戸初期の創建といわれています。屋敷の南西隅街道に面した合歓の木のほとりに芭蕉句碑があります。表に「蚤虱馬の尿する枕もと  芭蕉翁」、裏に「日本学士院会員小宮豊隆書  昭和参拾六年九月 最上町建之」と刻まれています。

※3 上野洋三・櫻井(さくらい)武次郎編『芭蕉自筆 奥の細道』(岩波書店 平成九年一月二十四日発行)

三 山刀伐峠越え ― 高山森々として

『おくのほそ道』 角川文庫 )

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと言ひて人を頼みはべれば、究竟の若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に蹶いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。
 かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。

( 現 代 語 訳 )

 封人の家の主人は、「ここから出羽国に抜けるには、途中に大きな山があり、道筋もはっきりしていないから山越えには道案内を頼んだほうがよい。」と言います。 それではと、案内人を依頼したところ、たくましい青年が、反りの強い脇差を腰にさし、樫の杖を手にして、私たちの先に立って進みました。今日は危険なめに遭いそうな気がしてならない、とびくびくしながら、後について行きました。   
 封人の家の主人の言うとおり、山は高く、木々は深く生い茂り、鳥の声ひとつしません。木の下は、枝葉が鬱蒼と茂り合い、まるで暗い夜道を行くようでした。杜甫の詩に「雲の切れ端から砂混じりの風が吹き下して、あたりが真っ暗だ。」という句がありますが、そんな感じでした。
 小笹のなかを何度も踏み分けて進み、流れを渡り、岩につまずいては、冷や汗を流すといったあんばいで、ようやく旧最上郡(山形県村山地方)に出ました。
 道案内してくれた青年は、「この道は、いつもめんどうが起こるんですが、今日は何事もなくお送りできて、幸いでした」と、喜んで帰って行きました。
 山越えが終わったあとで、こんな話を聞かされましたが、それでさえも、胸の鼓動はいつまでもおさまりませんでした。
 なお、芭蕉が引用した「雲端につちふる」という杜甫の詩の題名は、「鄭附馬潜曜(ていふばせんよう)、洞中に宴す」(皇帝の婿の鄭潜曜が蓮花洞で酒宴を催す)です。

堺田〜山刀伐峠 − 高山森々として

 五月十七日、快晴。二人は「究竟の若者」(たくましい若者)を案内人にして、荷物を持ってもらい堺田を出発しました。堺田から一里半、笹森には口留番所があり、佐藤久兵衛家が代々番人を勤めていました。番人は年貢を免除されていました。現在、番所の建物はありません。番所跡脇の小社は、小国郷開村伝説にかかわる国分大明神社です。

 笹森より市野々(尾花沢市)までの距離は三里です。 笹森からの本来の道順は、笹森― 小国(向町)― 満沢 背坂峠 岩谷沢 市野々です。

 この小国経由コースは回り道になるので、笹森から明神川を渡り、新屋 明神 赤倉から一刎(ひとはね)に出て、「一刎」「山刀伐峠」という名前を聞くだけでも無気味な険しい山道にかかりました。赤倉温泉の旧道の一部が「歴史の道」として整備復元されています。

 一刎から山峡の県道を二キロ行くと、山刀伐トンネルに達します。トンネル手前の左手から歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越」が整備復元されています。「歴史の道」の全国統一道標に従って旧県道を数か所で横切りながら登ると、約二十分で頂上に着きます。頂上は標高四七〇メートルで、「子持杉」と「子宝地蔵尊」があります。その後ろに「奥の細道山刀伐峠顕彰碑」が昭和四十二年十一月に建てられました。碑文は加藤楸邨氏筆で、

「高山森々として一鳥聲聞かず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠中踏分け踏分け、水をわたり、岩に蹶き(ママ)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。」

と刻まれています。

 このように「山刀伐峠」は、たくましい若者に道案内されて、ようやく越えることができました。冷汗と胸どきどきの連続でした。
 現在、山刀伐峠の頂上附近は国有林野で、うっそうとしたブナ、ナラなどの広葉樹林でおおわれています。山麓および中段区域は、造植林によるスギ、カラマツ林と水田畑開拓地となっています。

義経主従の北国落ちの追体験

 芭蕉は、道々に残された義経主従の伝説に心を動かされ、その物語と歴史への追懐の気持ちを持って旅しています。そして、義経主従の伝説を育んできた東北の人びとの哀しい心情に共感しています。
 芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、中山越え―山刀伐峠越えの険しい山道を越えて、陸奥国より出羽国へ入りました。この中山越え―山刀伐峠越えのコ―スは、義経主従の北国落ちの追体験でした。
 尾花沢の鈴木清風は、その先祖を義経の家来である鈴木三郎重家としています。鈴木一族の系図には、平泉の高館(たかだて)から尾花沢の牛房野(ごぼうの)に落ちのびてきたとあります。鈴木一族は、鈴木三郎重家の忠節の物語を祖先の記念として家門の誉れとしています。
 芭蕉が平泉から中山越え―山刀伐峠越えをして尾花沢へ入ってきたコースは、鈴木三郎重家の一族がたどった道でした。芭蕉は、清風をたずねるにあたって、その先祖への回向をしたのでしょう。

 歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越え」

 文化庁は昭和五十二年にむこう三年間にわたる「歴史の道」整備計画を発表しました。翌年には「中山道」と「熊野参詣道」と「おくのほそ道」の十一地区を設定し本格的に調査、整備事業を開始しました。とくに「おくのほそ道」については、宮城県と山形県が対象となりました。
 歴史の道「おくのほそ道」は、本来の街道の呼称が出羽街道(仙台街道)の中山越え、上街道、山刀伐峠越えです。元禄二年(一六八九)に芭蕉が紀行文『おくのほそ道』を叙述するにあたって通行した道であることから一般的に「おくのほそ道」と呼ばれています。
 歴史の道「おくのほそ道」の整備事業は、宮城県岩出山町が昭和五十四年〜五十六年度に一億二千万円、整備した延長距離四、二七三メートル。宮城県鳴子町が昭和五十三年〜五十六年度に一億二千万円、同延長距離五、一八七メートル。山形県最上町が昭和五十六年、同五十九〜六十年度に、六千四一四万七千円、同延長距離一、二四四メートル。尾花沢市が昭和六十一〜六十三年度に四千二〇〇万円、同延長距離一、一一〇メートルです。
 歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越え」は、昭和初期から二度におよぶ道路改修によって荒廃した箇所、耕地となり滅失した所もありますが、山道の大半は原形を読み取れます。最上町と尾花沢市は、文化庁と山形県から補助を受け、歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越え」として復元整備しました。

 山 刀 伐 峠 (尾花沢市・最上町)

 尾花沢盆地と向町盆地を結ぶ峠です。尾花沢市の東方丹生川(にうがわ)の支流赤井川に沿って北東へ進み、金山(七六三メートル)と大森山(八九七メートル)間を標高五一〇メートルで越え、最上小国川沿いの赤倉(最上町大字富沢)に出ます。山頂に子持ち杉、子宝地蔵尊、元文三年(一七三八)の墓碑があります。
 山刀伐峠は、山形藩領(のち幕府尾花沢代官所領)と新庄藩領との境です。尾花沢盆地側では関谷(尾花沢市大字富山)に番所、向町盆地側では一刎(最上町大字満沢)に番所、満沢(最上町大字満沢)と杉ノ入(最上町大字月楯)に境番人が置かれていました。
 山形城主最上義光が、天正八年(一五八〇)この峠を越えて小国城(城主細川摂津守直元)に攻め入りました(天正十二年説もあります)。細川氏滅亡後、小国城にには最上氏によって蔵増城主蔵増安房守の嫡子が封ぜられ、小国日向守光基(八千二百石)と称しました。
 山刀伐峠越えは、修験の道であって、普通の人の通れるような道ではありませんでした。古くから出羽三山参詣道者が越えた信仰の道でした。
 赤倉から峠までが急勾配で二十二曲りと呼ばれていますが、尾花沢側は緩い傾斜です。昭和七年(一九三二)自動車道として改修され、峠も四〇メ―卜ル低い切通しとなりました。同五十一年(一九七六)七月に延長五三八メ―トル(幅六メ―トル・高さ四・七メ―トル)の山刀伐トンネルが完成し、両盆地の連絡は容易になりました。
 峠の名称は、遠望すると峠付近の形状がマタギ(猟師)や農家の女性たちのかぶる茣蓙帽子の「ナタギリ」に似ていることに由来します。

四 市野々〜尾花沢

 山刀伐峠を下った最初の村が市野々(尾花沢市)、ここで芭蕉と曾良は案内人の若者と別れました。『曾良随行日記』にある「関ナニトヤラ云村」は関谷村のことで尾花沢代官所の番所が置かれていました。当時の番所は柴崎与左衛門宅でした。同家に寛永期の山形藩保科氏の「番所掟」(尾花沢市指定文化財)があります。
 芭蕉と曾良は、正厳(しょうごん・尾花沢市)の手前で大夕立にあっています。正厳・尾花沢間の村は二藤袋村であり、野辺沢(延沢)ヘの道が分かれていました。

五 尾 花 沢 ― さまざまにもてなしはべる 

(『おくのほそ道』 角川文庫 )

 尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。

六 芭蕉の尾花沢滞在

『曾良随行日記』によると、芭蕉と曾良は、五月十七日(陽暦七月三日)、険しい山刀伐峠を越え、昼過ぎ旧知の鈴木清風宅に着き、この日は清風宅に泊まったことがわかります。
五月十八日(陽暦七月四日)、梺町の羽州街道沿いにある弘誓山養泉寺で風呂に入り、この日から養泉寺に延べ七泊しました。これは清風のはからいであり、その間清風に代わって村川素英が随身して接待しました。
 五月十九日(陽暦七月五日)、村川素英が養泉寺で奈良茶を御馳走しました。
 奈良茶とは奈良茶飯であり、もと奈良地方に行われた茶粥です。同地では芋粥、畿内では奈良茶粥と呼んでいました。そのおこりは、東大寺・興福寺の両寺からです。
 まず、よい茶を煎じて初煎と再煎とを別々に取り、初煎の濃い方はそのままにしておきます。次に再煎の淡い方に塩少量を加えて飯に炊き、常のごとく蒸らしてよく熟した時、初煎の濃い方に浸けて食べるのが本格となっていました。
 喜多村節信(ときのぶ)の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』十二巻(天保元年)に、明暦三年(一六五七)の奈良茶飯店について、「明暦大火(振袖火事)の後、浅草金竜山(待乳山なり)門前の茶店に、始て茶飯、豆腐汁、煮染豆等をととのえて奈良茶と名付て出せし」(『日本随筆大成』昭和七年刊所収)とあります。また、『三田村鳶魚(えんぎょ)全集』第十巻(中央公論社、昭和五十二年)に、「明暦の大火災後に奈良茶飯というものが出来た。(中略)これは奈良の旅籠の仕方に学んだのだそうです」と書いています。
 五月二十日(陽暦七月六日)小雨。(記事なし)
 五月二十一日(陽暦七月七日)朝は東水(鈴木小三郎)宅、晩は遊川(沼沢所左衛門)宅に招待され、清風宅に泊まりました.
 五月二十二日(陽暦七月八日)晩、村川素英宅に招待されました。
 五月二十三日(陽暦七月九日)の夜は秋調(沼沢仁左衛門)宅に招待され、日待の行事に参加しました。日待は潔斎(けっさい)して徹夜し日の出を拝し祈願する行事ですが、途中で退参して清風宅に泊まりました。
 五月二十四日(陽暦七月十日)晩、一橋(いっきょう・田中藤十郎)が養泉寺でもてなしました。
 五月二十五日(陽暦七月十一日)夜、秋調から庚申待に招待されました。
 庚申待とは、庚申の夜、仏家では帝釈天および青面金剛を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗です。その夜眠ると人身中にいる三尸(さんし)が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいいます。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んに行なわれました。
 五月二十六日(陽暦七月十二日)昼より遊川(沼沢所左衛門)宅において東陽(歌川平蔵)がもてなしました。
 五月二十七日(陽暦七月十三日)午前六時三十分ごろ芭蕉と曾良は清風の好意により楯岡まで馬で送ってもらい山寺立石寺に向いました。
 このように清風をとりまく尾花沢の俳人たちは、連日芭蕉と曾良を自宅へ招いたり、あるいは御馳走を持参して養泉寺を訪ねています。また、芭蕉と曾良は日待・庚申待の土俗的な信仰行事にも招待され、夜更けまで地元の人びとの世間話に耳を傾け、みちのくの風俗習慣に触れたことは、貴重な体験でした。

 

南部道遥かに見やりて、岩手(いはで)の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と

※1  『おくのほそ道』の本文は、潁原退蔵(えばらたいぞう)・尾形 仂(おがたつとむ)訳注『おくのほそ道(新版)(角川ソフィア文庫 平成十五年三月二十五日発行)によりました。以下、同じです。

( 現 代 語 訳 ※2 )

南部地方へ向かって北上する街道を、はるか遠くに眺めやりながら、道を南西に転じて、岩手の里(宮城県玉造郡の岩出山)に泊まりました。そこから小黒崎・美豆の小島を通り過ぎて、鳴子温泉に出ました。
 鳴子温泉からは、尿前の関を通り抜け、出羽国(山形・秋田県)ヘ山を越えて出ようとしました。この山越えの道は、旅人がほとんど通らないため、関所の番人に不審尋問を受け、ようやく解放されました。 
 大きな山を登って行くうちに、日が落ちてしまったので、国境を守る庄屋の家を見つけて一夜の宿を頼みました。ところが、風雨が荒れ続けて、縁のない山の中に、三日間滞在しました。

蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と

 封人の家の母屋に馬を飼っているので、蚤や虱はいるし、枕元に馬の小便する音が聞こえてます。季語―蚤(夏)。

※2  現代語訳は、角川書店編『おくのほそ道()( ビギナ―ズクラシックス角川ソフィア文庫 平成十三年七月二十五日発行 )を参考にしたところが多い。以下、同じです。

一  は じ め に

山刀伐峠越え・旧道

二 尿前(しとまえ)の関〜堺田(さかいだ)
       蚤虱
(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと


『おくのほそ道』※1 )

「おくのほそ道」尾花沢    尾花沢市歴史文化専門員 梅津 保一

 ( 現 代 語 訳 )

尾花沢(山形県尾花沢市)では、清風という俳人を訪ねました。彼は紅花大尽とよばれる豪商ですが、志の高い人格者です。京都にも商用で出かけることが多く、旅人の心情をよく理解していたから、私たちを何日も引きとめて、長旅の苦労をねぎらい、いろいろともてなしてくれました。そうした清風の厚意に対して、次のような挨拶の句を贈りました。

 おかげさまで、この涼しさを、まるでわが家にいるような気分で味わいながら、気楽に膝を崩してくつろいでいます。季語‐涼しさ(夏)。
 土地の言葉「ねまる(楽にすわる)」を用いて、居心地のよさを感謝した挨拶の句です。芭蕉の笑顔が目に浮かびます。
歴史の道「おくのほそ道」  山刀伐峠越

 元禄二年(一六八九)三月二十七日(陽暦五月十六日) 四十六歳の松尾芭蕉は、弟子の河合曾良(四十一歳)をともなって江戸深川を出発し、陸奥路(むつじ)・出羽路(でわじ)・北陸路(ほくりくじ)の各地を巡る旅に出ました。そして、八月二十一日(陽暦十月四日)美濃大垣に到着しました。九月六日(陽暦十月十八日)伊勢神宮の式年遷宮を拝むため大垣から伊勢へ向いました。この百五十六日間、六百里に及ぶ長旅で特に印象深い出来事をまとめたのが、紀行文『おくのほそ道』です。
 『おくのほそ道』出羽路の旅は、最上町堺田に入った五月十五日(陽暦七月一日)から鶴岡市鼠ケ関を越えた六月二十七日(陽暦八月十二日)までの四十三日間です。 芭蕉は、出羽路で多くの名吟を詠み、地元の人びとと歌仙七巻を巻き、不易流行論を説きました。
 芭蕉が曾良をともない、山刀伐峠(なたぎりとうげ)のけわしい路を越えて、ここ尾花沢に鈴木清風(鈴木八右衛門、号道祐)をたずね、十泊しました。芭蕉は不朽の名作『おくのほそ道』に「かれは富める者なれども、志卑しからず」と記しています。『おくのほそ道』尾花沢の項に載せた四句を貫くものは、奥羽山系を横断することによって、出羽の風土、人びとの生活や習俗の中に、古い歴史がそのまま生きていることを発見した喜びだったといわれています。
 清風は、元禄期における出羽の豪商で、風雅にも心を寄せた人物でした。それから三百二十年、昔のおもかげはなくなりました。しかし、自然の美しさと心に豊かさを求める人びとの願いは、昔も今も変わりません。わずかに今に残されている過去のおもかげに人びとの思いがひきつけられます。

地元の俳人たち

素 英(そえい)

 村川伊左衛門。七郎兵衛ともいいます。残水・鷺草庵草翁・寒梅翁と号しました。楯岡の商家村川九郎兵衛自休の嫡子(二男か)です。父九郎兵衛は、伊勢国射和(いさわ)(松坂市射和)の生れ、大淀三千風(三井友翰)と三井宗智(六郎兵衛)とは兄弟です。『倭漢田鳥集』『松島眺望集』『稲莚』『日本行脚文集』に兄弟の句がみえ、鈴木清風家文書に借用証文が三通あります。
 素英は三千風の甥で、若い頃から尾花沢に住み、俳諧は初め清風に師事しました。後に嵐雪門になり、其角や露沾とも交り、尾花沢蕉門の中心的人物になりました。
 芭蕉の死後、素英は芭蕉の跡を訪ねて諸国を行脚すること四十か月におよびました。その行脚中に清風が亡くなりました。その後、素英は、梺町の薬師園の所に京都の清水寺の舞台造りにならって庵室をつくり、鷺草を植え、鷺草庵と称しました。晩年に眼をわずらい、息子(尾形氏)のいる楯岡に移り、元文元年(一七三六)九月十日死去しました。行年七十余歳でした。素英は、東籬(鈴木又左衛門)に「花の香やまこと水かげ仏法僧」「浅ち野に旦那ひとりの燈篭かな」の辞世句と点印を贈りました。上町観音堂境内の石塔は、尾花沢を離れるときに素英自身が建てた逆墓(生前墓)です。

 象潟や霜にあげ居る鷺の足                          ( 『継尾集』 元禄五年)

秋 調(しゅうちょう)

 沼沢仁()左衛門氏富。尾花沢村の名主で、吉十郎ともいいます。妻貞は山形藩領大石田村の大庄屋高桑加助(川水)の娘です。宝永六年(一七〇九)八月二十六日に五十五歳で没し、知教寺に葬られました。

 風につれて浪のうねうね花薄

遊 川(ゆうせん)

 沼沢所左衛門。吉之助・氏安とも称しました。名主の藤左衛門氏富(俳号英子)の弟で、新町に分家しました。正徳二年(一七一二)一月四日に五十二歳で没し、知教寺に葬られました。

 夫婦星や尾ひらの動き羽買山                     ( 『誹諧おくれ双六』 延宝九年)

 屏風じまこや法眼の春の花                        ( 『松島眺望集』 天和二年)

関や清水編笠とかめあま蛙                           ( 『稲莚』 貞享二年)

東 陽(とうよう)

 歌川平藏。歌川俊親(『日本行脚文集』)と同一人物です。享保十五年(一七二〇)一月七日に没しました。

 行脚衣。氣をしのぶずりの秋暮し   歌 川 俊親            ( 『日本行脚文集』 元禄三年)

一 中(いっちゅう)

 町岡素雲。壷泉斎・片々子とも称しました。紀州の生れで、日光に住し、嵐雪門に入って俳諧を学びました。後、山形行蔵院に勤め、さらに海谷(大石田町)地蔵院(天台宗)の中興開山となりました。林崎(村山市)の坂部壷中は、一中存命中の門弟でした。

 痔咳の心や朽て飛螢                                『誹諧おくれ双六』 延宝九年)

 岩蔵さへ松したの月鼻が高ひ                        ( 『松島眺望集』 天和二年)

 桑の柱蓬莱の山に忘レけり                                    『稲莚』 貞享二年)

似 休(じきゅう)

 鈴木宗専。東水(小三郎)の父で、小三郎と称した尾花沢の富商です。先代の宗珍も似休と号していたので、宗専は二代似休です。芭蕉の尾花沢来訪時、上京中でした。一晶−直水門です。享保八年(一七二三)七月二十七日没しました。

 松嶋の月の末寺や三国院                                              『松島眺望集』 天和二年)

 朝起ハ雨にしるへし秋のくれ                                                 『稲莚』 貞享二年)

 水風呂や烏衣の一しぐれ                                          ( 『日本行脚文集』 元禄三年)

東 水(とうすい)

 鈴木三郎兵衛。通称小三郎です。似休(宗専)の婿です。父より早く享保二年(一七一七)二月十日に没し、念通寺に葬られました。嵐雪―加祐門です.

 明松はうなぎならめや夕凉                                        ( 『尾花の系譜』 宝暦十年)

一 橋(いっきょう)

 田中藤十郎。杏花とも称しました。湖蓮( 有路彦太郎 )と共に言水門で、清風に随身しました。没年は不詳です。

一 栄(いちえい)

 高野平右衛門。山形藩領大石田村組頭で、船持荷問屋業を営んでいました。持船を担保に清風から金四十両を借用しています。清風とは俳諧のほかに経済上の交流もありました。大淀三千風とも旧知の間柄でした。元禄二年( 一六八九 )芭蕉来訪時、五十四歳でした。没年は不詳です。

 年の花や目あき千人歌枕                                     ( 『誹諧おくれ双六』 延宝九年

 若水や竜の都も千尋縄                                      ( 『稲莚』 貞享二年

 鳥海の雪よりおろせほとゝぎす                             ( 『継尾集』 元禄五年

川 水(せんすい)

 高桑加助。金蔵、吉直とも称しました。山形藩領大石田村の大庄屋で、一栄と同じく、鈴木清風を中心とするこの地方の俳壇の一員でした。『曾良随行日記』の五月二十五日の条に、「大石田より川水入来」とあり、すでに尾花沢で芭蕉・曾良に会っていたことがわかります。元禄二年(一六八九)芭蕉来訪時、四十六歳でした。宝水六年(一七〇九)六月二十二日に六十七歳で没しました。大石田新町の乗船寺墓地に川水夫妻の墓があります(板垣一雄氏発見)。

  いほ崎や不二の煙の初灸                        『誹諧おくれ双六』 延宝九年)

 月影や最上をさして川馬なく                           (『継尾集』 元禄五年)

この項は、尾花沢市地域文化振興会編『芭蕉と清風 -おくのほそ道・尾花沢-(芭蕉・清風歴史資料館 昭和五十八年七月三日発行)によるところが多い。

 蚕の世話をしている人たちの姿は、古代もきっとこうだったろう、と昔をしのばせるほどに素朴です。     季語‐蚕飼ひ(夏)。
 養蚕に従事する人々の服装が、古代ふうに簡素で養蚕の長い歴史を感じさせたのです。時間が止まったような地方の生活感覚がうかがわれます。季語‐「蚕飼ひ」の季は春だが、ここでは夏蚕の意と解し夏とします。
蚕飼ひする人は古代の姿かな  曾良
 化粧用の紅をとる紅花が一つ咲いています。それを見ていると、どうしても女性がおしろいをつけた後に眉を払う、小さな刷毛を連想してしまいます。季語−紅花(夏)。
眉掃きも紅粉の花も、女性の可憐・柔和なイメ―ジジを連想させます。紅花大尽の清風に対する挨拶めいた一句です。
 蚕を飼う部屋の床下からひきがえるの声が聞こえてくる。ひきがえるは、蚕をたべる天敵である。蚕を飼っている人たちが「困った」と嘆くのを聞いた芭蕉が天敵よ、顔をみてやるからこっちへ出ておいで。季語‐蟾の声(夏)
眉掃きを俤にして紅粉の花
這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声

涼しさをわが宿にしてねまるなり

這ひ出でよ 飼屋が下の 蟾の声

眉掃きを 俤にして 紅粉の花

蚕飼ひする 人は古代の 姿かな   曾 良 

「素龍本」『おくのほそ道』芭蕉に頼まれ、素龍が浄書した。現在、福井県敦賀の西村家が伝えられていることから、「西村本」とも呼ばれている。

「おくのほそ道」研究 もくじ

尾花沢村絵図

上石柳水(玄俊)撰「尾花の系譜」(旭川市鈴木重俊氏所蔵)
 宝暦10年(1760)に作成され、延宝から宝暦期までの約90年間にわたる尾花沢地方の俳人たちの系譜が記されている。

「涼し塚」

「涼し塚 ・ 覆堂」

養泉寺 仁王門

涼しさをわが宿にしてねまるなり

山刀伐峠赤倉側の「歴史の道」案内板

県道28号線沿いの標柱(尾花沢側)

芭蕉・清風歴史資料館前の芭蕉像

上町観音堂 村川素英の逆修墓
「おくのほそ道」尾花沢文学碑

尾花沢市内の「おくのほそ道」遺跡

 尾花沢市中町五‐五の清風宅(現当主は十五代目鈴木正一郎氏)の東隣り裏に昭和五十八年七月三日、尾花沢市立「芭蕉・清風歴史資料館」が開館しました。敷地内に「芭蕉像」(平成元年五月 門脇 啓・シウ建立)があります。芭蕉の尾花沢滞在中にもっぱら接待を務めた村川素英の逆修墓(生前墓)が旧羽州街道沿いの上町観音堂にあります。さらに南へ進んだ横内の株式会社明友本社そば処「明友庵」前に加藤楸邨氏筆の「おくのほそ道」尾花沢碑(昭和六十二年十月、西塚義治建立)と案内板があります。

清風邸跡

芭蕉・清風歴史資料館

「奥の細道」山刀伐峠顕彰碑

山刀伐峠 頂上付近

木馬(封人の家)

旧有路家住宅(国の重要文化財)

「尿前の関」の芭蕉句碑

出羽街道中山越え「尿前の関」跡