芭蕉の諸国への旅は、各地の「俳人」や俳諧愛好者によって支えられていました。この〈文芸〉の担い手がすでに三都(江戸・京都・大坂)以外にもひろく存在していたことは、注目に値する事実です。
 
宿場町の繁栄などで旅が楽になったことと、風雅の文人の旅の増加とそして地方の小都市にこれを迎えて「俳諧」や「和歌」を楽しもうとする気運の高まりとが、たがいに原因とも、結果ともなって進行して行きました。
 
土地によっては元禄ごろから流行したという「前句付」などの〈俳諧風の遊び〉もあって、人生の教訓の表現にも利用されていました。それ自体は、文字を知らなくてもできる遊びですが、「文字文芸」への誘いになりました。そして「文字」を知る者の増加は、村のなかで経験によって蓄積された知識や〈処世の術〉に対してひろい世間からの〈知識の有効性〉を主張していきました。村の指導的な地位に立つにも役所向きの交渉や文書作成能力とともに、そうした知識が有効であったことは言うまでもありません。
 
「俳諧」や「和歌」は、文字の用法をひろく知る機会になったし、これを通じてひろい世界からの知識を吸収する場にもなりました。それ故に遠方からの文人たちは、彼らに歓迎されたのです。鈴木清風家では、「俳諧師」などの来訪者をしきりに迎えていたと考えらます。
 
俳諧は、近世文芸のなかで人びとにもっとも親しまれていたといえます。老若男女、身分を問わず、だれもが「作者」として気軽に参加できたからです。
 
中世には「連歌」が流行していましたが、近世に入ると、滑稽味を重視した俳諧〈連句〉に取って代わられます。特に、芭蕉が樹立した「蕉風俳諧」は、それ以前の貞門・談林派の言語遊戯的な性格を離れ、詩情豊かな庶民の〈詩〉となりました。現代まで続く俳諧の隆盛は、まさに松尾芭蕉がもたらしたものと言ってもいいでしょう。
 
「連句」は、一人で詠み連ねる「独吟」を除いて、複数の作者が互いの個性を刺激しあいながら、共同でつくりあげる文芸です。「涼しさを我が宿にしてねまる也」、現代では一般に「俳句」と呼ぶ、五・七・五の句も、本来は連歌や連句の最初の句を意味する〈発句〉と呼ばれていました。この発句を第一句目として、順次、前の人の句を受けて〈付句〉を詠んでいきます。そして、二つの句の間に生じる〈世界〉を、味わい楽しむのです。
 
つぎつぎに詠み重ねられる新しい世界は、どのように展開するか予想はできませんが、結果として変化に富んだ「一巻」として織りあげられます。一巻の句数は、連歌以来、一〇〇句連ねる〈百韻〉がふつうでしたが、芭蕉のころには、三十六句の「歌仙」が主流となっていきました。 作品の出来具合は一座の参加者(連衆)や雰囲気に左右されるものできわめて偶然性の高い文芸であります。作家個人が作品に対し全責任を負うという、近代の芸術観からは計り知れない特殊な「座の文芸」だったのです。
 
「歌仙」は懐紙二枚をそれぞれ二つ折にし、その表と裏に六句または十二句づつ記します。「歌仙一巻」中には、必ず「月の句」を三句、「花の句」を二句詠まねばならないことになっています。その場もほぼ一定していて〈月の定座〉、〈花の定座〉といいますが、実際に当たってはその場所は〈臨機応変〉であってさしつかえありません。
 
また「恋の句」も一巻中に少なくとも一か所で詠まなければいけません。恋の句は一句だけで終らせず、二句以上五句まで続けるものとされていましたが、芭蕉は一句だけで終わる場合があってもよい、と考えていました。
 
一巻の最初の句を〈発句(ほっく)〉、第二句目を〈脇〉、第三句目を〈第三〉、最後の句を〈挙句(揚句 あげく)〉といい、その他の句を〈平句(ひらく)〉といいます。発句はその季節に従って「季語」を詠み、脇は発句と同じ季語にします。春と秋の句は三句ないし五句の範囲で続け、夏と冬の句は一句でやめてよいが、二句続けることも多く、三句まで続けることが許されます。季語のない句は「雑(ぞう)の句」といわれました。
 
芭蕉の「俳諧」に対する考えは、『笈の小文(おいのこぶみ)』の冒頭と「許六離別の詞」(元禄六年/一六九三年四月末)に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(かんどう)する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひ四時を友とす」「見る処花にあらずといふ事なし」「無能無芸にして只此(俳諧)一筋に繋る」、と書いています。
 
すなわち、ジャンルを越えた一つの「貫道する物」を観ているのです。また、美しいものの見方を養う態度が天地自然に随い、四季を友にすることに外ならない。南山大師〈空海〉の『性霊集』の言葉、「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所を求めよ」という書に関する言説を俳諧にあてはめているのです。
 
芭蕉の「芸術観・自然観・人生観」は、彼の〈俳諧観〉に収斂(しゅうれん)され、江戸・小石川で鈴木清風が芭蕉らと興行した『古式百韻』(『芭蕉翁古式俳諧』所収)に収められています。
 
「おくのほそ道」の旅の出発直前、元禄二年(一六八九)三月二十三日に岐阜本町の商人安川助左衛門(俳号落梧)あての手紙に、「みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみ候」とあります。「風雅」の伝統を探ると同時に、都市の華美に染まらぬ未知の俳人とめぐりあい、それらの人びとと歌仙を巻くことができたら、という大きな目標があったのです。

日本の生んだ「座の文芸」―連句―は、長句(五七五)と短句(七七)を付け合い、さらに短句(七七)と長句(五七五)を付合い、限りない想像力の広がりを楽しめます。事実、芭蕉の「涼しさを」の句は、一句で終らず三十六句の歌仙として残されました。芭蕉の名吟の多くは連句の発句だったのです。

俳句は、単独に生まれた文芸様式と一般に考えられていますが、実は俳句は連句の発句を、明治中期以降に独立させたものなのです。その結果、俳句は共同体の座の文学から個の文学になってしまいました。一方、連句は、その反省としてからか、グループで詩作をわかち合える楽しい形式として、今や多方面で見直されつつあります。
 
連句の魅力は、季語と無季の句の配合の妙によって、知識と想像力が引出され、年齢を超えて恋・無常をはじめ、人間の喜怒哀楽を自由自在に詠み込める点にあります。できあがった作品は、宇宙曼陀羅(まんだら)となり、まさに〈自然と人生の交響詩〉といえましょう。
 
芭蕉が心血をそそいで、芸術に高めた連句を現代人の手に取戻すことは、ますます画一化し孤立化する人間社会にあって、ある時間を複数の人間で共有し、個性を発揮しながらも、お互いの心を交わらせ、見失いつつある自然と人事の交流を再認識する場(座)の復権につながります。
 
以下、『おくのほそ道』出羽路で興行した歌仙の発句と脇句を紹介してみよう。

 「おくのほそ道」出羽路での歌仙

尾花沢市歴史文化専門員  梅 津  保 一

 @ 歌仙 「すゞしさや」 ( 繋 橋 ) 尾花沢   清風亭
 A 歌仙 「おきふしの」  ( 繋 橋 ) 尾花沢   清風亭
 B 歌仙 「さみだれを」 ( 芭蕉眞蹟懐紙 ) 大石田   一栄亭
 C 歌仙 「御尋に」 ( 曾良俳諧書留 ) 新  庄   風流亭
 D 歌仙 「有難や」    ( 曾良俳諧書留 ) 羽黒山   本  坊
 E 歌仙 「めづらしや」 ( 曾良俳諧書留 ) 鶴  岡   重行亭
 F 歌仙 「温海山や」 ( 曾良俳諧書留 ) 酒  田   不玉亭
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