高野一栄宅跡の歌仙「さみだれを」碑案内板
最上川(大石田町)
高桑川水夫妻墓のある「乗舩寺」
「おくのほそ道」出羽路の芭蕉Top

 5月28日(陽暦7月14日)、山寺から同じ道を引返し、午後2時25分ごろ大石田の高野一栄宅に着きました。本飯田まで高桑川水が迎えにきてくれました。 
 29日(陽暦7月15日)、歌仙の発句から一巡を終え、芭蕉は一栄と川水を誘って黒滝の向川寺へ参詣しました。午後2時20分ごろ大石田に戻り、夕飯を川水宅で 御馳走になり夜に入り一栄宅に帰りました。
 30日(陽暦7月16日)、4人で歌仙「さみだれを」を完了しました。この歌仙は紀行中に芭蕉が自ら浄書して、真筆の懐紙を旅の記念として残した唯一の歌仙です。また、旅をふりかえって『おくのほそ道』を書いた時、「このたびの風流爰に至れり」と深い思い出をいだいた歌仙でもあります。大石田で「奥の風雅」が極まったと書いています。

 古くから最上川は、物資や文化を運ぶ重要な動脈でした。最上川舟運は、内陸部と日本海を結ぶ交通機関として発達しました。その発展には、慶長末年(1610年代)の最上義光による最上川三難所(碁点・三ケ瀬・隼)開削、寛文12年(1672)の最上川河口酒田湊を基点とした河村瑞賢による西廻海運の整備、元禄5〜7年(1692〜94)の西村久左衛門による上流の松川舟運の開発、本流に適したヒラタ舟(米200俵〜350俵積み)と、上流松川や支流須川を通船した小鵜飼船(米30〜50俵積み)が必要でした。

 最上川舟運は、幕藩領主の年貢米輸送路として整備されたが、全国的市場に米・雑穀・紅花・青苧・真綿・蝋・漆・荏油・水油・紙・葉煙草等を移出し、塩・茶・木綿・古手・茶海産物などの生活物資を移入する流通路として発展しました。
 商人荷物のなかでは、特に最上紅花が特産物として知られ、出荷にあたっては生花を干花に加工しました。
 紅花は、最上川三難所をさけて羽州街道を大石田まで陸送され、酒田まで最上川舟運を利用し、酒田からは海路敦賀に送り敦賀から再び陸路をとり、琵琶湖舟運で大津に揚げられ、京都紅花問屋へ運ばれました。こうして最上紅花は京都で染料・化粧品・薬品などに加工されました。
 最上紅花の道は、そのまま上方(京都・大坂)文化が入ってくる道でもありました。新庄・尾花沢・大石田・谷地(河北町)祭の山車や祭囃子は京都の祇園祭の流れをくみ、寛政年間(1789〜1800)に尾花沢の鈴木清蔵父子が京都から念通寺に雅楽を伝えています。最上川流域の旧家に残る雛人形・仏壇・仏像・瀬戸物なども上方からもたらされたものが多い。

大石田―さみだれをあつめてすゞしもがみ川

 最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種落ちこぼれて忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるベする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。

                     
                        (角川文庫本『おくのほそ道』)

高野一栄宅跡の歌仙「さみだれを」碑