「おくのほそ道」大学と旅                                                    

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    「おくのほそ道」猿 羽 根 峠 〜 新 庄 〜 最 上 川 〜 出 羽 三 山
                                      「おくのほそ道」大学学長 梅 津 保 一

 

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 猿 羽 根 峠 〜 新 庄

舟形町側の猿羽根峠登り口

  六月一日(陽暦七月十七日)大石田を出発した芭蕉は、名木沢を経て猿羽根峠を越え、舟形を通って新庄に至り、渋谷甚兵衛(俳号風流)宅を宿とした。『曾良随行日記』には、「二日昼過より九郎兵衛へ招ねかる。彼是(かれこれ)歌仙一巻有。」と、新庄における芭蕉の動静が略記してある。

  「九郎兵衛」は風流の本家渋谷九郎兵衛(俳号盛信)で、当時新庄第一の富豪であったという。「歌仙一巻」というのは、「御尋に我宿せばし破れ蚊や  風流/はじめてかほる風の薫物  芭蕉/菊作り鍬に薄を折添て  孤松/霧立かくす虹のもとすゑ  ソラ」

に始まる七吟歌仙のことである。この時、別に、「盛信亭  風の香も南に近し最上川  翁」を発句とする三つ物もあった。

  新庄駅前広場からすぐ左折、大石田駅方面ヘ線路と平行に約十五分歩くと八幡神社、隣接して金沢幼稚園がある。その先を左折して奥羽本線の踏切を渡り、右に曲がって行き、石山機械の向かい側の道に入って進むと、左側に枝垂れ柳を背にした「奥の細道氷室の句碑と柳の清水」の標柱が建っている。そこを入ると、左側に「芭蕉翁ゆかりの氷室の清水跡」と題する屋根つきの説明板がある。その先に「水のおく氷室尋る柳かな  芭蕉翁/羽新庄雪映舎中修造」と刻した芭蕉句碑が建てられている。碑陰には「涼しさや行先々ヘ最上川  蓼太」の句を刻し、「天明元年歳次辛丑十月十二日東都宇平建  沙羅書」と見える。句碑の傍らには「市指定史跡  欄の清水及び句碑」(側面、平成元年四月二十八日指定)の標柱があり、句碑に向かって左側に、清水の湧いている小さな池と「水神」の碑がある。この小さな湧水地が「柳の清水」なのであろう。渋谷九郎兵衛宅址は、現在の山形銀行新庄支店の所で、芭蕉の来遊を記念して、銀行前に「芭蕉遺蹟盛信亭跡」(裏面、昭和三十六年六月二日  新庄市観光協会  新庄市長木田清書)の標柱が建ててある。

  風流亭の位置については、「本家九郎兵衛盛信の屋敷の筋向かい」、「南本町西側、大手口側から数えて南へ六軒目」を想定する説もある(『新庄市史』第二巻)。

  市民プラザ入口には、盛信亭での発句、「風の香も南に近し最上川  芭蕉翁/渋谷盛信裔渋谷道書」の句碑(碑陰、おくのほそ道紀行三百年を記念して平成元年九月十日  新庄市建立  石工菅千代松)がある。

 

  最上川舟下り

 

最上川に落ちる白糸の滝

 
 六月三日、好天に恵まれて新庄を立った芭蕉は、本合海より最上川下りの船客となり、清川で上陸し、狩川を経て羽黒山麓に向かった。

  本合海には「史蹟芭蕉乗船之地」の標柱が建てられ、傍らに芭蕉・曾良の旅姿像(陶製)がある。像の前の石上には「奥の細道紀行三百年記念事業/建立  本合海エコロジー  平成元年七月十九日/原型  山形市  村川信夫  元新庄藩御用窯(開窯)五〇年記念作品)ノ製作  新庄東山焼五代目弥瓶」と記した陶板が据えてある。

  その向かいには、「五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉」の句碑(碑陰、蕉風俳階一路庵白舟謹書/本合海エコロジー建立  昭和六十一年十月吉日)」が建っている。説明板の最初には、「本合海は、陸路のない時代に内陸と庄内を結ぶ最上川船運の重要な中継地として栄えました。」と書いてある。

  『おくのほそ道』最上川下りの項に出てくる「ごてん・はやぶさ」は、いずれも大石田の上流の難所であるが、芭蕉の通った所ではない。「仙人堂」は外川神社とも言い、源義経の従臣常陸坊海尊の遺跡と伝える。陸羽西線高屋駅より一キロほど上流の対岸、木陰に見える。「白糸の瀧」は、高屋駅より二キロ(徒歩約十五分)ほど下流の対岸にかかって「青葉の隙々(ひまひま)に落ちて」いる。最上川は歌枕としても著名であった。

  芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句の初案は、大石田の高野一栄亭での「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の句形で、五月雨で増水している最上川を川船で下って「あやう」い思いをした体験によって改作したものであろう。その背後には、最上川の早川(急流)であるという本意を生かそうとの意図もあったことと思われる。

  現在、最上川下りは「最上川芭蕉ライン舟下り」と称して、古口から草薙温泉まで約十二キロ、一時間の船旅である。乗船場は陸羽西線古口駅下東、大通りに出たら右折して進み、古口生コン工場の先で橋を渡るとすぐ左側、「乗船手形出札処」「戸沢藩船番所」の大きな看板の出ている所である。建物は看板にいうとおり、昔の船番所の様式を採り入れたものである。

  ただし、古口駅を出て、大通りを左折して行くと、古口郵便局の少し先に、「奥の細道船番所跡」「古口舟番所跡」の標柱が建っているから、現在の乗船場すなわち昔の船番所跡ではない。ここには以前、「明治天皇行在所班」の碑に並んで、「朝霧や船頭うたふ最上川  子規」の句碑(碑陰、昭和三十一年九月十九日  最上峡観光協会)があったが、今は乗船場の建物の裏手、最上川に近い所に移建されている。

  草薙温泉の終点(最上川リバーポート)で下船し、約二五〇メートル川上の方ヘ道路を歩くと、「明治天皇御小憩所」入口の標柱がある。川岸近くにその記念碑と、子規の「朝露や」の句碑(碑険、前に同じ)が建っている。この先に白糸の瀧ドライブインがあり、対岸に白糸の瀧の流れ落ちる景観を眺めることができる。

  芭蕉は草薙の下流、清川まで行ったが、『曾良随行日記』によると、「舟ツギテ清川ニ至ル。平七より状添方ノ名忘タリ。状不添シテ、番所有テ、船ヨリアゲズ。」

  学校の裏庭に、加藤楸邨(しゅうそん)氏揮毫の、陽刻の銅版を自然石に嵌(は)めこんだ「五月雨を集めて早し最上川」の句碑(昭和三十一年建立)と、陽刻の「清川関所跡  芭蕉荘内上陸地」の碑が建っている。校門脇の説明板には次のように見える。

  「芭蕉遣跡  清川関所/清川は最上川筋の主要港で、水陸の咽喉(のど)を扼(やく)し、庄内藩が関所を置いた有名な関門であった。関所跡は現在は小学校の敷地になっている。中央に通称「御殿」があり、周囲の林は「御殿林」と呼んでいた。表門

は最上川に向ってあり、右手に上陸した者の手形を調べる関所があった。芭蕉と曾良が上陸したのは、元禄二年旧六月三日(陽暦七月十九日)である。   

 

  出羽三山(でわさんざん)

出羽三山神社

  月山(標高一九八四メートル)・湯殿山(一五〇四メートル)・羽黒山(四一九メートル)の総称。古来より修験道の聖地。室町末期ころまでは羽黒山・月山・葉山(一四六二メートル)で三山を構成し、湯殿山を三山総奥の院といった。そして羽黒山の本地観音、月山の本地阿弥陀、葉山の本地薬師を本尊と仰いで過去(弥陀)・現在(観音)未来(薬師)の三世にあてる。三山で修行することによって三世の関を越え、三山の総奥の院であり大日如来の浄土である湯殿山に駆け入り、即身成仏の果を得るのが羽黒修験の面目であったという。  

  戦国時代に三山の中心勢力であった羽黒山の修験教団が動乱の渦中に巻きこまれ、三山踏破の修行は途絶えがちになった。一方、葉山も修行の道場であったが、寒河江の慈恩寺教団との間に複雑な問題を生じて混迷に陥っていたところから、羽黒山との交流も意にまかせぬ状態になっていた。しかし、羽黒修験道の教義体系を維持するには、葉山に代わる高山で、葉山のように薬師仏を本地とする山を抱えこんでおく必要があった。国府に近い飽海郡の吹浦に勧請されている月山・鳥海山(二二三六メートル)両所の宮の神宮寺と、鳥海山学頭の蕨岡観音寺とはともに羽黒山の末寺であったし、大物忌神と仰がれる鳥海山の本地仏は薬師如来であったから、これを三山の一つとしたこともある。

しかし、道者(どうしゃ)の先達権や山上社の祭祀権をめぐって、蕨岡・吹浦・滝沢・矢鳥・小滝などの登山口間にはこのころから紛争が起こりはじめていたこと、山と山との間にひろがる庄内平野が山林修行の緊張感を削ぐという問題があったことから、これを避けて道を山中に求めようとすれば、最上川をどこで渡るかという難点があった。そういうことから、湯殿山大権現の背後にそびえる薬師岳をえらぶに至ったのは一六世紀末(元亀・天正ころ)であった。しかし、実際には薬師岳に入峰することはほとんどなく、姥(うば)月光から遥拝すると直ちに湯殿山に駆けいったようである。そこで湯殿山御神体の左肩から湯の噴出するところを薬師如来の宝処と拝して、これを三山の一つとするとともにこれまでどおり総奥の院という性格をもたせ、三山を取り巻く登山口はすべて総奥の院である湯殿山への登り口ということで湯殿山の八方七口というようになったのは、一三九五年(応永二)ころに大井沢の道智(どうち)が、志津から姥を経て湯殿山への道を開いたのが導火線になって、岩根沢から本道寺・大網・注連掛(しめかけ)などの登山の動きが活発化したことに基づくと思われる。しかも、これらの口の発展には寒河江の慈恩寺がなんらかの関係をもっていたように思われる。

 

  出羽三山信仰(でわさんざんしんこう)  開山伝説と湯殿山の祭祀権

  羽黒山の伝承によると、三十二代の崇峻天皇の第三子である参弗理(サンフリともミフリとも読んでいる)が、蘇我馬子の魔手を逃れるために宮中を脱出して名を弘海(こうかい)と改め、北海の浜から舟に乗り海岸沿いに北上して由良に上陸。三本足の烏(からす)に導かれて羽黒山に登り、ついで月山と湯殿山を開いた。能(よ)く諸人の病苦を救ったので能除仙(のうじょせん)と呼ばれたが、実は蜂子皇子であったというので一八二二年(文政五)仁孝天皇から照見大菩薩(しょうけんだいぼさつ)という号を贈られた。かれの死後五十年を経て役行者(えんのぎょうじゃ)が羽黒山に来てその法を継ぎ、大和の金峰山(きんぶせん)を開いて大峰絛験の祖となったという。

  これに対し湯殿山別当と称する大井沢大日寺・本道寺村本道寺・大網大日坊・七五三掛(しめかけ)注連寺など真言宗所属の四カ寺は弘法大師が湯殿山を開山したと主張する。羽黒山には天台・真言・臨済・曹洞・念仏の諸宗が入りまじっていたが、かれらは一つにまとまって活動していたばかりでなく、一六四一年(寛永十八)には一山を天台宗に統一して輸王寺の宮との接近を図った。しかし一六世紀末(慶長年間)までは湯殿山別当四カ寺と羽黒山とは袂(たもと)をつらねて湯殿山霊域に奉仕していたのであるが、一七世紀(寛永)ころからは次第に反目し合うようになり、一六三九年(寛永十六)、一六六六年(寛文六)、一七九〇年(寛政二)の三回にわたり湯殿山の祭祀権をめぐって両者は幕府の法廷で争った。双方は互いにわが方の勝利と称しているが、幕府の裁定は常にあいまいであったから、一八七二年(明治五)、一九〇七年(明治四十)一九四六年(昭和二十一)にも湯殿山の分離別祭問題が起こっている。

 

   羽黒山(はぐろさん)

  月山北西麓に位置する標高四一九メートルの丘陵。第三紀頁岩層からなる。所在地は鶴岡市羽黒町手向字羽黒山。月山・湯殿山とともに、出羽三山の一つ。

  羽黒の由来は、出羽三山開祖とされる蜂子皇子を導いた三本足の烏の羽色にちなむという。門前集落手向(とうげ)から山頂までの一・七キロメートルは石だたみの表参道が続き、その両側には樹齢三〇〇ないし五〇〇年になる杉の巨木の並木が屹立する。山内には、国宝五重塔、松尾芭蕉の史跡南谷、頂上近くの桃山風の書院造の斎館、三山合祭殿などがある。手向は羽黒山の門前集落でここから本殿のある山頂まで有料自動車道が通り、麓には羽黒国民休暇村・羽黒スキー場などがあり、四季を問わずにぎわっている。羽黒山は古来より羽黒修験の霊場として殷賑(いんしん)を極めた。これに月山・湯殿山を合わせた出羽三山は一体のものとして信仰されてきており、月山・湯殿山が冬季積雪のため参拝できないので、羽黒山に三神合祭殿を設けてこれを本社としている。また月山・湯殿山が女人禁制であったのに対し、当山のみは婦女子の参拝が許された。羽黒修験の起源は明確でない。

  社伝によれば崇峻天皇の御子蜂子皇子(能除太子)が羽黒を開山し、のちに役小角(えんのおづぬ)が中興したといい、山中に蜂子神社が紀られている。この開山説はもとより信じ難い。役小角に始まったとする葛城・金峯の修験道よりさらに古いことを宣伝するためつくられた説話であろう。「深仙勧灌頂系譜」などは出羽国出身の黒珍が延暦四年(七八五)羽黒山に初めて熊野権現を勧請したとしている。一般に羽黒修験ははじめ天台系の本山派(熊野修験)に属していたが、のちに真言系の当山派(吉野修験)に転じたとされている。しかしもともと修験者の所属はきわめてあいまいだった。『慈慧大師伝』によると、貞元二年(九七七)都で杜欽をかぶり、百八摩尼珠を手にした行者たちが、激しく法螺貝を吹き鳴らして歩き、「われわれは役小角の徒である。久しく師の名をきいていたが、いま羽州の霞をでて、はるかに廬蜂の雲に入るところである」と言ったという。この行者たちを羽黒山伏とする説が強い。当時まだ羽黒修験は熊野・吉野修験と別派意識をもっていなかったと思われる。これが平安末期から鎌倉期になると、熊野権現が天竺から日本に到来した当初、羽黒に宿を借りたという伝説が起こり、羽黒本社の西南に勧請された熊野権現を客人権現といった。そして羽黒神が東三三か国を支配し、熊野権現は羽黒神から西二四か国をゆずられて、紀州に遷座したなどという説話が生じた。

最盛期の羽黒修験はたしかに天台色が濃かったが、本山派に属したとはいえない。羽黒修験は独自のものであった。これが当山派に属するようになったのは、羽黒修験が衰微しだした室町期〜戦国期以降だろう。

  江戸初期羽黒の傑僧天宥が別当となり寛永寺(現東京都台東区)天海僧正と結んで、羽黒修験をあげて天台方に転じようとしたが、湯殿山の修験らが猛烈に反対するなどして十分効を奏しなかった。羽黒山でも山上の本社を中心とする清僧・行人は真言方、谷の五重塔の清僧・行人と麓の手向居住の妻帯修験は天台方と別れていたが、本社への出仕や法会の執行権には甲乙がなかった。羽黒修験の修法には天台系のものが少なくないが、真言系とくに広沢流のものも多く混っているという。羽黒山の特殊神事としては五月八、九日の田植祭、七月十五日の羽黒花祭などがあり、開山蜂子皇子の命日とされる羽黒山八朔祭は「田面作り」ともいわれ、二百十日の無事を祈る。特に十二月三十一日から元旦にかけて行われる松例祭は最大の行事で、綱撤神事、大松明引神事、火打替神事と続くが、一種の虫送りの神事で参拝者が群集する。  

  また、羽黒山は文化財の宝庫である。出羽三山合祭殿(羽黒山三山合祭殿)は県文化財、拝殿と本殿は権現造りで萱葺き社殿としては最大のものであり、雪国の重厚さを示して見事である。特に圧巻は合祭殿の前の御手洗地(鏡が池)から出土した銅鏡で、かつて参詣者が祈願をこめて投入したもので、国重要文化財に指定され、現存数四三四面を数える。出羽三山神社所蔵鏡一九〇面を時代別に見ると、平安期九一、鎌倉期五六、室町期二、桃山期一、江戸期三、未詳三七で、羽黒の盛時を物語っている。五重塔は国宝で、承平年間(九三一〜三七)平将門の創建とも伝えられる。山頂の梵鐘は建治元年(一二七五)の銘がある日本第四位の大梵鐘である。文永の役(一二七四)の時の法力に感謝し、鎌倉将軍惟康親王が奉納したもので、国重要文化財に指定されている。寛永年間、

(一六二四〜四三)別当天宥が植えたという参道の杉並木は国特別天然記念物に指定され、

日光の杉並木にまさるとも劣らない。源頼朝が麓の手向に建てたと伝えられる黄金堂その他重要文化財や県文化財が数多く残されている。

 

  出羽神社(いではじんじゃ)

  羽黒山に所在。旧国幣小社。祭神は伊□波(いでは)神、社伝は稲倉魂命あるいは玉依神とする。羽黒山の開山については崇峻天皇の御子蜂子皇子(能除太子)とされ、現在も境内に蜂子神社が紀られている。しかし出羽神社の草創時のことは不明。伊□波神は『延喜式』の式内小社で、出羽国の生命を祀った神社、つまり出羽国魂神社ともいうベき神社であった。

  羽黒山は最初の出羽国府跡とする説が有力である平形付近の端山の中でも最も目立つ峰で、ここに国魂神社の社殿が建てられたのも偶然ではない。神祇信仰の発達とともに、

山自体を神とした月山や湯殿山よりも社殿祭祀の羽黒山出羽神社が栄えていったと思われる。伊□波神社に神宮寺として寂光寺が建立され、神仏習合が進んだ。本地垂迹説の成立後は、伊□波・月山・湯殿山神の本地はそれぞれ観音・弥陀・大日と考えられるに至った。  

  羽黒山には古くから行者がおり、月山や湯殿山を験所とし、熊野三山に擬して出羽三山の信仰をつくりあげ、羽黒修験が栄えていった。平安末期から鎌倉期にけて羽黒修験は最盛期を誇った。歴朝武将の尊敬が厚く、後堀河天皇の造宮をはじめとし、源頼義義家が戦勝を祈願した。建久四年源頼朝は黄金堂を建立し、武家不入の特権を与えた。承元三年(一二〇九)には羽黒山衆徒が大泉荘地頭武藤氏平が寺田をかすめ、山中に干渉したと幕府に列参し、懲戒された。一三世紀終り頃にも一人の羽黒山伏が斬首されたのに抗議して幕府に直訴し、関係幕吏が処罰された。また、羽黒修験は武力をもっていた。

承久二年(一二二〇)後鳥羽上皇が腹心の二位法印尊長を羽黒山総長吏に補任したのも討幕のための布石であったと思われる。これを知った幕府は家人の真田家久を所司代として羽黒山に派し、尊長の入山を阻止したという。正平二年(一三四七)北畠顕信が守永親王を奉じて立谷沢城によったのも羽黒衆徒の援助によるものであった。永享七年(一四三五)足利義政と細川持氏が出羽三山の御正体を本社に奉納した。文安二年(一四四五)には藤島城主土佐竹氏光が本社を修造している。土佐竹氏は羽黒修験に属する藤島宮目寺衆徒の中からでた豪族で、「三山社務」という古名を名乗っていた。羽黒の神威もようやくゆるぎ、地力の武士の勢力が伸びてきた。文明四年(一四七二)庄内領主武藤政氏が羽黒山別当を兼ねるに及び、武家の勢力が山中に介入し、羽黒山伏の多くが武藤氏の配下に属するようになった。しかし天正末期武藤氏が豊臣秀吉により放逐され、山中の武家勢力が除去された。慶長七年(一六〇二)に最上義光の領国となると、義光は堂搭を修理し一五〇〇石を寄せている。この社領は江戸期徳川家綱に朱印地として安堵され、歴代かわることなく、また庄内藩主酒井忠器が本殿(三山合祭殿)を再建した。  

  羽黒修験は修験場として中世には坊舎七〇〇〇と称され、江戸期にも、坊舎三〇坊・山伏七六坊の寺勢を有し、羽黒山伏として自立し、いずれの派にも属さなかったが、幕府は寛永年間に天台宗輪王寺末に付した。明治維新における神仏分離に際し、三山の旧制は全く乱れたが、明治六年(一八七三)列格となる。

 

  月山と羽黒山

  出羽国が置かれた七一二年(和銅五)から六十一年目の七七三年(宝亀四)に月山神は封二戸を授けられ八三八年(承和五)以前に従五位下勲五等に叙せられている。以後昇進して八八〇年(元慶四)には従二位勲四等となり、九二二年(延長五)に撰進された『延喜式』では月山は名神大、出羽神社は名神小に列している。出羽神社はいま羽黒山上に鎮まる出羽三山神社に比定されているが、出羽神社が公記録にあらわれるのはこれが最初である。九二二年当時、出羽神杜が羽黒山上に鎮座していたかどうかについての疑問を表明した人は江戸時代から少なくないが、今は通説に従っておく。

  羽黒山に修験教団が形成されたのは一二世紀ころらしく、『慈恵大師伝』や『源平盛衰記』をみると、羽黒の修験者や巫者が京都に姿をあらわしはじめている。鎌倉時代になると四国や鎌倉にも集団で活動しており、新田義貞の挙兵に関係した俊賢(しゅんけん)のような人物もいる。  

  月山神を月読命と拝し、本地を阿弥陀如来と仰ぎ、羽黒神を玉依姫命、本地を観世音菩薩とする教義や入峰修行の体系が整い、奥・羽・佐・信・越を羽黒山の敷地と呼び、霞(信徒地域)に御師(おし)・在庁(ざいちょう)を配して末派修験の組織化を確立するのも平安末期から鎌倉時代にかけてである。

 

  月山(がっさん)

  県のほぼ中央に位置する霊峰。山容が牛の寝た形に似ているところから臥牛山・犂牛(くろうし)山ともいう。標高一九八四メートル。羽黒山(四一九メートル)・湯殿山(一五〇四メートル)とともに出羽三山と呼ばれ、古くから信仰されていた。

  地質は花崗岩・第三紀層およびそれらを貫く玄武岩・安山岩からなる。山体を構成する溶岩は、カンラン岩・輝石安山岩などである。東側の標高一五〇〇メートル以上に原表面が残っており、ゆるやかな半月型をなし、雄大な眺めである。一方、西側は古い爆裂火口で、急崖をなしている。日本海から近いため、冬季の季節風は多量の積雪をもたらし、山腹東側に、大雪城(おおゆきじろ)をはじめとする越年雪をみる。この膨大な雪が、亜高山針葉樹林帯を極度に貧弱にしている。

  古来から羽黒修験の霊場で、羽黒山・湯殿山とともに東国の総鎮守とされてきた。山頂の月山神社には月読之命を祀り、開山は崇峻天皇第一皇子の蜂子皇子とされる。七〜八月には羽黒山から湯殿山へと三六キロメートルの路を歩いて、五穀豊穣・家内安全海上安全を祈願する人々でにぎわう。登拝路として東側の岩根沢・本道寺・大井沢、北側の肘折口、西側に羽黒口の手向と湯殿山口の七五三掛(しめかけ)・大網の七コースが整備されていた。  

  今日では羽黒口からの月山高原ライン、六十里越街道(国道一一二号)の整備、湯殿山口の仙人沢有料道路と姥沢小屋までの車道整備などの観光開発が進んでいる。中腹までのブナ原生林、羽黒口八合目の弥陀ケ原、肘折口の念仏ケ原、山頂付近のクロユリをはじめとする高山植物、豊富な残雪を利用した春・夏スキー場としても広く知られている。

 

  月山神社(がっさんじんじゃ)

  月山頂上に所在。山麓の立谷沢にも月山神社がある。旧官幣大社。祭神は月読命。崇峻天皇の御子蜂子皇子が建てたと伝えられるが、草創は不詳。ただし出羽の「山の神」で最も早くから尊崇されたと思われる。四季白雪をいだいて静かに横たわる月山の山容に古代人は神の姿を見出したのであろう。

  文献上の初見は『新抄格勅符』で宝亀四年(七七三)十月神封二戸を寄せるとある。ついで貞観十六年(八七四)正四位上勲六等より従三位に進み、それ以来正三位、神封二戸追加、勲四等と進んだ。これらの昇位は東夷征討戦あるごとに奇験をあらわしたとされたためと思われる。元慶の乱の時も、出羽権守藤原保則は、大物忌・月山・哀物忌の三神は「上古時ヨリ征戦有ルニ方(あた)り、殊ニ奇験ヲ標ス」と上奏しており、元慶四年(八八〇)従二位を授けられた。仁和元年(八八五)石鏃の怪があった時にも大物忌神とともに国司の祭紀を受けた。また月山神は貞観四年頃から大物忌神とともに国幣社になっていたと思われる。『延喜式』では国幣大社とされている。ここで問題なのは式内社月山神社が飽海(あくみ)郡にあるとしていることである。月山神は「山の神」でもともと田川郡にあったはずである。それがのちに飽海郡に移ったともとれる。総合して考えて、元慶の乱の際、鎮定祈願のため、月山神と大物忌神の両神が国府近くの吹浦(ふくら)(遊佐町)に並べ祀られるようになったという説が有力である。『延喜主税式』には「月山大物忌神祭料二千束」と記されていた。かくて「鳥海月山両所宮」と称され、「出羽国一の宮」と尊信されるに至った。この両所官はまた「両所大菩薩」と拝された。これは神仏習合の結果と思われる。

  月山神(月読神)の本地は阿弥陀如来とされた。阿弥陀如来の垂迹は正式には八幡神であるが、月山神の本地を阿弥陀如来としたのは地方人の信仰に即して説かれたためと思われる。月山の山中に西補陀原という熱心な道者の参拝所がある。また弥陀ケ原があり、弥陀の来仰を待つ所と信じられた。月山は羽黒山・湯殿山とともに出羽三山と称され、羽黒修験の活躍する霊場とされた。山形市一明院の貞治七年(一三六八)の碑には「月山行人結集等百余人」とあり月山信仰が如何に強かったかを示している。江戸期に月山神は将軍家より六八九石の朱印地を給されていた。明治期にも国幣社から官幣社に昇格し、大正三年(一九一四)にはついに官幣大社にまでなった。

 

  湯殿山(ゆどのさん)

湯殿山神社

  月山南西山腹にそびえる山。標高一五〇四メートル。月山・羽黒山とともに出羽三山の一つ。湯殿山神社は五穀豊穣・家内安全の守り神として崇敬されているが、社殿をもたない珍しいものである。御神体は湧出する温泉と水酸化鉄が沈澱重積してうろこ状になった巨岩である。  

  湯殿の由来は、自然の御神体がお湯にひたっているところから名づけられた。神社一帯は古くから神秘の境域とされ、「語るなかれ、聞くなかれ」と戒められていた。松尾芭蕉の『おくのほそ道』(角川文庫)にも、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」とあり、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句を残している。六十里越街道(国道一一二号)から、仙人沢まで有料道路が通り、初夏から晩秋までのシーズン中はかなりにぎわう。

 

  湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)

  湯殿山に所在。旧国幣小社。祭神は大山祇命。この神社には本殿も拝殿もなく、月山の西南山腹一局部を神域とする「山の神」である。輝石安山岩塊を含む泥流の一堆頂から湧出して堆面を伝わって流れる温泉が御神体とされている。その起源は不明であるが、羽黒修験の徒が月山を験所とし、さらに月山の背後に下降して湯殿山を開き(六〇五年)、熊野三山に擬したものと思われる。中世以来月山・羽黒山と並んで出羽三山といわれたが、なかでも湯殿山は総奥之院といわれ、大日如来を本地とし、即身成仏の理を証得する場とされた。また湯殿山は農業と関係が深いと考えられ、信仰をあつめていた。江戸初期に羽黒別当となった天宥が上野寛永寺(現東京都台東区)天海と結んで従来の出羽三山の真言系修験を改めて天台宗寛永寺末とし、三山を統一しようとしたが湯殿山の修験が猛烈に反対して、実現しなかった。湯殿山は羽黒の本山(天台)派に対する対立感情から強い当山(真言)意識を持続し、著しく真言系浄土信仰へ傾斜していった。その結果、即身成仏の実証としての即身仏(ミイラ)を生ずるに至った。現在我が国には二十数体のミイラが発見されているが、うち六体が山形県庄内地方にあり、これら六体とも湯殿山で修行した真言系の修験たちであることが注目される。

 

  葉山(はやま)

  出羽山地上に、月山とともに噴出した火山。標高一四六二メートル。頂上に葉山神社があり、山頂と古御室山を結ぶ弧状の稜線から北東に馬蹄形の一大爆裂火口を有し、その底から富並川が発している。名称の由来は、奥の山に対して里近い山、端(はし)の山山の端の意にちなむという。起源は明らかでないが古く修験の山として信仰を集めた。

  『三代実録』貞観十二年(八七〇)八月二十八日に「出羽国白磐神・須波神並従五位下」とある白磐神を葉山地主権現に比定する説がある。初見は慈恩寺舞童帳(慈恩寺本堂文書/『山形県史』15上)の永正十一年(一五一四フ条で、「林泉坊葉山、橋本坊葉山」とある。この舞童帳から葉山の坊を拾いあげるとほかに長勝坊・金輪坊・大乗坊・田沢坊・河口坊(川口坊)などがある。なお舞童帳は永正十一年〜大正十一年(一九二二)まで書き続けられた慈恩寺弥勒堂に舞楽奉納をするさいの費用負担を記録したものである。葉山別当大円院は『医王山金剛日寺年要記』によると、最上氏の崇敬をうけ、承応元年(一六五二)以後は新庄藩戸沢氏の祈願所として領民の信仰を集めたという。慶安二年(一六四九)には幕府から五石六斗の朱印地を与えられ、安永五年(一七七六)十月分限御改帳(三宝岡風立寺所蔵、葉山文書)には「御朱印高五石六斗  此取米九俵壱斗  但シ三斗入  但シ葉山地主権現社領  一、田弐反八畝歩」とあり、同時に境内山林東西一里・南北三里余も御朱印と記載されている。葉山権現社領五石六斗は吉川村(現西村山郡西川町)にあった。宝暦十年(一七六〇)六月葉山宗旨寺内証(今田信一氏採訪文書)には別当大円院の下に川口坊・鳥居崎坊・萱野坊・聖坊・橋本坊・善蔵坊・掛作坊(砂作坊)・円乗坊・林泉坊・桜沢坊・田沢坊・大乗坊の一二坊が天台宗門として記載。下って安永五年(一七七六)の分限御改帳(三宝岡風立寺所蔵、葉山文書)には河口坊・鳥居崎坊・橋本坊萱野坊・善蔵坊・聖野坊の六か坊が葉山権現への参詣導者の宿坊をしながら寺院として存続していることが記されている。葉山は古く出羽三山の一つに数えられていた時代があり、また天正の頃まで慈恩寺の奥の院と称されていたとの記録もあるが不明。

  第二次大戦後、大高根地区(現村山市)が米軍の射撃場になり、別当大円院が着弾地の危険区域に入ったため、葉山入山禁止命令により昭和三十年(一九五五)村山市大字岩野へ解体縮小移転された。参道としては、仁田沢道嶽道・大平峰筋下り・西小禿嶺筋などが記録されているが(古縁起校定)、現在は不明。今日では参詣者も絶えてしまったが、石の大黒様が祀られ、石を積めばお金もつもるという素朴な信仰が残っている。また大円院は、虫除け・五穀豊穣の守り神として近郷近在の信仰を集めている。山麓はブナの原生林に覆われ、山頂付近には県天然記念物となっているトガクシショウマをはじめ多くの高山植物の群落がみられる。山形盆地からは春から初夏にかけて月山とともに残雪の美しい山が望まれ、人々に親しまれている。