羽州街道六田宿と芭蕉さん

                       尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

 

『曾良随行日記』の記事(現代語訳)

咲きほこる最上紅花

元禄二年(一六八九)五月二十七日(陽暦七月十三日)の晴れた日、午前六時三十分ごろ、芭蕉(ばしょう)と曾良(そら)は尾花沢から山寺立石寺(りゅうしゃくじ)へ向かった。鈴木清風が楯岡まで馬を用意してくれた。本飯田―楯岡―六田―天童と馬を乗りついだ。六田での馬継の間に「内蔵」と逢った。

「内蔵」は六田宿の問屋の主人であろうか。天童から山寺街道にすすみ、午後三時ごろ山寺に着いた。宿は預り坊(徳善坊)であったという。その日のうちに「山上・山下巡礼終ル」であった。山寺から山形へは三里。山形へ行こうとしたが、止めた。西行の訪れた「たきの山と申す山寺」行を断念?

 芭蕉は最初、立石寺の参詣はまったく予定していなかったが、尾花沢の鈴木清風らのすすめで羽州街道を立石寺に向かった。天童宿から山寺街道が分かれるが、舞鶴山麓の念仏寺跡に立ち寄ったとされ、現在そこに「翁塚」(宝暦八年〈一七八五〉建、丸山氏庭へ。昭和五十六年〈一九八一〉再建)の碑と芭蕉句碑「行末は誰肌ふれむ紅の花」(昭和六十一年〈一九八六〉建立)がある。また、石倉の旧山寺街道に加藤楸邨筆の芭蕉句碑「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」(昭和五十八年〈一九八三〉七月十一日建立)がある。

 五月二十八日(陽暦七月十四日)、芭蕉と曾良は、山寺から馬を借りて天童へ向かった。六田宿でまた「内蔵」に逢い立ち寄ったらもてなしてくれた。午後二時二十五分ごろ、大石田の高野一栄(たかのいちえい)宅に着いた。本飯田まで大石田の高桑川水(たかくわせんすい)が迎えにきてくれた。この夜は疲れたので俳諧(はいかい)はなく、休んだ。

六田の斎藤本店焼麩工場前庭に芭蕉句碑「もがみにて紅粉の花の(咲)わたるをみて 眉はきをおもかけにして紅粉の花 はせを」(平成元年〈一九八九〉七月十三日)がある。

六田宿の「内蔵」について、大石田町立歴史民俗資料館の関淳一氏は尾花沢の鈴木久左衛門家文書『金銀貸方帳(仮称)』にみえる「高橋内蔵介(くらのすけ)」でないかといっている(『東根が、六田の「内藏」及び「持賞」考』、『羽陽文化』第百五十号平成十八年三月二十七日発行所収)。なお、六田宿の高橋家については、工藤雪雄氏の調査がある。

芭蕉さんの紅花の句

眉掃(まゆはき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

行末(ゆくすえ)は誰(たが)肌(はだ)ふれむ紅(べに)の花

この二句は、ともに元禄二年(一六八九)の盛夏、俳聖松尾芭蕉が『おくのほそ道』紀行中、出羽路(でわじ)に入り、最上紅花に感嘆してつくった名句である。二句ともに豊かなあたたかいこの地方の風情を詠(よ)んでおりあますところがない。一つは叙景的、写実的であり、一つは叙情的、官能的であって、今もなお、私たちの心にせまるものがある。

尾花沢から山寺へ向った五月二十七日は、太陽暦に換算すると、七月十三日にあたる。こういう暦上の時節と、紅花の生長、開花の季節が、どのようにかさなるか、そして芭蕉がどの季節に、どこを歩いていたかを想定すれば、句の生まれたところが、およそわかることになろう。

古来、最上紅花の播種(ばんしゅ)と開花、摘花(てきか)の時期は春の清明(せいめい)ごろ、すなわち太陽暦の四月四、五日ごろに種をおろせば、「半夏(はんげ)一つ咲き」といって太陽暦の七月であろう。芭蕉は一つ咲きの紅花を見てすぐ女性を思った女性が使う眉期毛(まゆはけ)を連想した。紅花はアザミと同じよ二、三日ごろに、まず一輪くらいの開花を見せ、その後ぞくぞくと咲きだすのが普通である。芭蕉の二つの句をかさねあわせてみると、どうなるか?

「眉掃を」のほうは、その清楚(せいそ)で可愛(かわ)いらしい紅花の形容の姿から、どうしても「一つ咲き」の紅花でなければ、ぴたりとこない。一つ咲きの紅花をみて、詠(よ)んだ野であろう。芭蕉は一つ咲きの紅花を見てすぐ女性を思った女性が使う眉刷毛(まゆはけ)を連想した。紅花はアザミと同じように眉刷毛に似た形をしている。紅粉(ベに)といえば、女性の粧(よそお)う口紅(くちベに)の花を意味している。

山寺立石寺からの帰路、太陽暦の七月十四日、『曾良随行日記』に、六田で「内蔵に逢、立寄は持賞ス」とあり、芭蕉主従は往復、内蔵の家に立ち寄っている。「行末は」の句は名産地六田周辺で一服をしながら満開の紅花畑で働く美しい若い娘に心ひかれて成った句であろう。                  

俳人の森澄雄氏は、「紅花を摘(つ)む美しい若い娘が将来どんな男に肌を許すのであろうか」という艶冶(えんや)な句であると解釈している。                                 

グループ風に揺らぐ紅花・六田

   芭蕉さんにもふ(麸)とあえそうな六田宿

羽州街道の歴史と文化にこだわった地域づくり

@ 羽州街道五八宿ネットワークづくり

 A 芭蕉翁「おくのほそ道」ネットワークへの参加

 B 六田の歴史と文化のほりおこし

 C 六田宿の「おもてなし」−最上紅花、ご馳走など

 D 道−物、人、情報の交流

 三ショク(触・職・食)ヒ(ト)ル(ート)ネ(グラ)

 

 

六田の芭蕉句碑

江戸時代の六田村は、羽州街道の宿(しゅく)であった。宿とは江戸時代の交通運輸機関であり、駅・宿駅・伝馬宿・馬継(馬次)・馬継場などとも呼ばれた。宿の機能は運輸・通信・休泊を主とするが、運輸と通信のためには人馬(宿人馬)があり、羽州街道は二五人・二五疋を一日に提供するのを原則とした。それを超過する分は助人馬村または助郷に負担させた。駕籠(かご)・馬・背負いなどの運搬のほ か、幕府公用使の継飛脚も宿の負担であった。これらの業務を一宿で負担できない小宿で、二宿以上が日割で業務を 分担する場合は合宿といった。

  宿業務を扱うために宿役人が置かれ、問屋場を事務所と

した。公務旅行者は朱印または証文(宿継証文)を携帯し

ており、公用人馬に余裕がある場合には、一般旅行者は馬

士や人足を相対賃銭で使用した。