芭 蕉 句 に み る 好 物 

                   梅 津 保 一 (うめつやすいち)

こんにゃく

咲きほこる最上紅花

芭蕉のこんにゃく好きは、門弟たちの言によっても十分うかがえます。許六(きょろく)は『あさふ』の後序において「翁は蒟蒻(こんにゃく)を好かれたり」と述べているし、また支考(しこう)は『削(けず)りかけの返事』で、超人(ちょうじん)に対する反論として、祖翁と先師へ詫事(わびごと)のために、こんにゃくの白あへでもして、霊供(れいく)をそなへ給ひなば、未来に罰舌のはさみはのかれぬベし。

と述べて、間接的に、芭蕉のこんにゃく好きを証明しています。芭蕉自身も、発句に

 

o 蒟蒻(こんにゃく)にけふは売かつ若菜哉  (元禄六年・芭蕉一周忌)

 前書「七種」(真蹟)上五「はまぐりに」(真蹟)中七「今朝は売かつ」(蕉翁句集)下五「齊かな」(泊船集書入)「若葉哉」(猿雖本三冊子)

o 「比句はじめは蛤になどゝ五文字在。再吟して後こんにゃくにたり侍ると也」    (三冊子)。

 いつもなら蒟蒻(こんにゃく)の方がよく売れるのに、今は子日のこと故、若菜の方がよけいに売れた、の意。

 

o 蒟蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花 (同・蕉翁句集)

前書「いかなる事にやありけむ、去来子へつかはすと有」(小文庫)

o 『蕉翁句集』に「此句ハ無人(なきひと)のこと抔(など)云ついでと云」とある。

伊賀の料理で、蒟蒻を刺身形に薄く切り、ゆがいて酢味噌でたベる。仏前への供物。

梅の花が咲き始めた。亡き人の忌日に、こんにゃくの刺身も少し添え斎膳に供えたことだ、の意。

と詠んでおり、また、「十五夜の献立表」(後述)などより察して、こんにゃくは余程の好物であったと思われます。

 

き の こ

芭蕉の死因は、園女亭(そのじょてい)において出された好物の茸(きのこ)のごちそうがもとで胃腸が衰弱したためといわれています。其角(きかく)の『芭蕉翁終焉(しゅうえん)記』にも、伊賀山の嵐、紙帳にしめり、有ふれし菌(くさらび)の塊積(つかえ)にさはる也と覚えしかど、苦しげなれば、例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば(以下略)とあり、茸(きのこ)がもとで芭煮は死病にとりつかれたとしています。また、「十五夜の献立表」(後述)をみると、しきりにきのこ類か出されており、こんにゃくと同じく芭蕉のきのこ好きも有名なものだったと思われます。

 

十五夜の献立表

無名庵は、元禄七年(一六九四)夏、伊賀上野の門人たちが、芭蕉のために、兄半左衛門の屋敷の裏に建てた庵です。この庵は八月に落成して、そのお礼に芭蕉は、十五夜に門人たちを招いてごちそうしたが、その折の芭蕉自筆の献立表がのこされています。

これをみるとほとんど野菜でしかも山菜が多い。その中でこんにゃくか見え、きのこ類(しめじ・木くらげ・焼初茸・松茸)が多いことは、芭蕉の嗜好を示しています。

 

鮎(あゆ)

   美濃ゝ国にて辰のとし

o またたぐひ長良の川の鮎膾(あゆなます)  (己が光)

前書「名にしあへる鵜飼(うかい)といふものを見侍らむとて、暮かけて、いざなひ申されしに、人びと稲葉山の木かげに席をまうけ、盃をあげて」上五「又やたぐひ」(笈日記)。長良川は木曽川の支流。「無い」の意を掛けている。

  長良川の鮎膾(あゆなます)は比類なく美味なものである、の意。

   美のゝながらといふかはに、あまたの鵜をつかふをみて、

o おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉(うぶねかな) (真蹟色紙)

前書「美濃ゝながらがはにて、あまたの鵜をつかふをみにゆき侍りて」(真蹟詠草)「岐阜にて」(蕉翁句集)。上五「おもしろく」(橋立案内志追加)。中七「やがてなかるゝ」(菊の香)。下五「鵜飼かな」(蕉翁句集)。

謡曲『鵜飼』の「隙なく魚を取る時は罪も報ひも後の世も忘れ果てゝ面白や」「鵜舟に灯す篝火の消えて闇こそ悲しげれ」の詞章をふまえている。

   常陸下向に江戸を出る時、送りの人に

o 鮎の子の白魚送る別かな  (伊達衣)

   前書「留別」(続猿蓑・泊船集)

去って行く自分を白魚に、残る人々をアイゴ(永代橋辺の川で白魚に交って網にかかり、漁師は鮎の子と称したという)に比した句。

    河豚(ふぐ)河豚は冬の季語

 

紅葉が美しい秋の山寺「宝珠山立石寺」全景

(発句 ほっく)

o  あら何ともなやきのふは過(すぎ)てふぐと汁 (延宝五年・江戸三吟その二)

  河豚魚(ふぐと)はフグの古名。「ふぐと汁」は「ふぐ汁」と同じ。

この句は桃青(芭蕉)・信章・信徳三吟百韻の発句で、これに対して信章が「寒(さ)しさって〈しさるは退くの意〉足の先迄」と脇を付けている。

フグの毒性は古来よく知られており、フグを食べる時はかなり勇気が必要で、   ためらう人が多かったし、食べたあとも心配だった。

昨日(きのう)ふぐと汁を食べたが、「あら何ともなかったよ」の意。

     杉風が採荼庵(さいたあん)に涼て

o 雪の鰒(ふぐ)左勝(ひだりかち)水無月(みなつき)の鯉(天和三年・みなし栗)

   雪の頃のふぐ料理より水無月(陰暦六月)の鯉料理の方がよい。

芭蕉の最大のスポンサーである日本橋の幕府の御用肴屋である杉山杉風(鯉屋市  兵衛)の深川の別荘「採荼庵」での納涼会で出された鯉料理をもちあげた句である。

  桑名にあそびて、あつた(熱田)にいたる

o あそび来ぬ鰒(ふぐ)釣かねて七里迄 (貞享元年・皺筥〈しわばこ〉物語)

   七里灘、すなわち七里の渡〈わたし〉の略。江戸時代、東海道は尾張の宮より海上七里を航し桑名に出づるを順道とし、これを桑名七里渡と呼び、この航路辺を七里灘といった。海上風波高き時は佐屋(さや)廻りの陸路をとった。

  桑名七里渡の航路で鰒(ふぐ)釣り遊びをしたが釣れなかったの意。

    熱田に移ル日

o 鰒(ふぐ)釣らん 李(子)陵七里の浪の雪 (貞享元年・桜下文集)

   厳子陵が釣りした中国の七里灘に因む桑名七里渡の航路で熱田にむかう雪空の日に鰒(ふぐ)を釣ろう。

   「李(子)陵七里」とは、厳子陵の釣ったところを後人厳陵瀬と呼び、七里灘(浙江省桐慮県)と相接していた。

 

(附句 つけく)

o 鰒(ふぐ)のこてふの春になり行 (武蔵十歌仙、のまれけりの巻)

   鰒(ふぐ)が鼓腸(腹部の膨満する状態)する春になって行く。

(句評 くひょう)

o 昔は鱸(すずき)今はふぐ (延宝八年・田舎の句合)

   昔は鱸(すずき)が美味で珍重されたが、今はふぐにかなわない。

 

o 古風は鱸魚(すずき)を愛して河豚(ふぐ)をしらず (延宝八年・田舎の句合)

   昔は鱸(すずき)を愛して河豚(ふぐ)の美味を知らなかった。

o 又右の鰒(ふぐ)数奇さばにあてられ鰹にえひての上暫ク用捨有べし(田舎の句合)

(書翰 しょかん)弟子の琴風(きんぷう 一六六七〜一七二六))にあてた手紙に、

  摂津の人。江戸に出て不卜門、のち其角門。生玉氏(また、川・河東)。

o 此比(このごろ)は鰒(ふぐ)多くとれはいかいふぐの会にまぎれさんさんの仕合。(琴風宛)

このごろ鰒(ふぐ)多くとれて俳諧がふぐの会(フグ汁を食べる会)にまぎれ散々(さんざん)始末である。

   芭蕉の句ではないが誤って芭蕉句と伝わっている三句 

 

o  鰒汁(ふぐじる)やあほうになりとならばなれ (偽書簡中の句、華鳥文庫)

    鰒汁(ふぐじる)の毒にあたって阿呆(あほう)になればなれ、構わない。

 

o  ふぐ汁(じる)や(たい)鯛もあるのに無分別 (誤伝の部、芭蕉句選拾遺)

   鯛があるのに鰒汁(ふぐじる)とは無分別(考えがない)である。

 

o  だまされて食わずぎらいがふぐをほめ

    フグを食わないという人に別の魚の名をいってだましてフグくわせたらうまいとほめた、の意。

 

江戸時代、俳諧の世界にフグにまつわる多くの句が残されています。江戸時代の料理法は、すべてふぐ汁スタイルでした。寒い季節に味噌仕立て、今も昔も変わらぬ珍味であった。