西国行脚の夢

 尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

元禄七年(一六九四)のいわゆる芭蕉最後の旅では、大坂からさらに西国への行脚の意向をもっていたことが、二、三の資料から推定されている。

深川の史跡展望庭園の芭蕉像

 たとえば元禄十年刊の『陸奥鵆 (むつちどり)』の著者天野桃隣(あまのとうりん)によれば、芭蕉は江戸を発つとき「又戌(いぬ)五月八日、此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴(ききなれ)ぬ人の詞も聞(きか)ん」ことを願っていたという。後代の闌更(らんこう)の編んだ『蕉翁消息集』のなかには、金沢の立花北枝にその同行を求めていたといったことを書いた書簡内容の矛盾からみて明らかに偽簡とみられるものも収録されている。ただ、晩年の門人野坡 (やば)が『草の道』の序文に「先師蕉翁は生涯風に吹かれ、雲にさそはれ奥羽に杖を荷ひ、(中略)されど須磨・明石より西は道祖神のいさめもなく、又はいささかの衰病にひきすゑられし事を、本意なきなど、折々は聞え給ふ」と記しているように結局のところ、その杖は須磨・明石から西には及ばなかったのであった。しかし、辞世吟に準じられる「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」には、筑紫の野を行脚する芭蕉自身の旅姿もイメージされていたのかもしれない。その筑紫への夢は、各務支考(かがみしこう)ら門人たちによって、やがて叶(かな)えられるのであった。

 

 職業俳諧師としての支考の行脚

 各務支考のはじめての行脚は、芭蕉生前の元禄五年春、師の『おくのほそ道』の旅の跡を辿(たど)る奥羽行であった。途中、須賀川では支考の「此市(このいち)に浅香の沼の田螺(たにし)うれ」を立句に相楽等躬(さがらとうきゅう)と両吟歌仙(『伊達衣』所収)を巻き、出羽国でも同じく支考立句「行雲(ゆきくも)の砕(くだ)て涼し礒の山」による重行・呂丸(ろがん)吟歌仙(『継尾集』所収)を巻くなど俳筵(はいえん)を持ち、六月初旬には江戸に帰着している。出羽では呂丸らから、二年前『おくのほそ道』の旅の際の芭蕉俳話の聞き書きを手にし、それをふまえて支考最初の俳論書『葛(くず)の松原』を成稿している。この年は、二月十三日に綱吉が湯鳥聖堂で釈奠(せきてん)の儀を行い、三家や大名らを召して儒書の講義を聴講させるなど、その好学の志が儒学への一般の関心を高めさせていた。

 職業的俳諧師として自覚をもって、支考が行脚の第一歩を刻んだのは、元禄十一年の筑紫行脚『梟(ふくろう)日記』の旅であった。芭蕉がついに果たせなかった西国(さいごく)行脚の夢の実現でもあった。この年四月、難波を首途した支考は、中国筋は瀬戸内を舟で経由して、途中同行者として雲鈴(うんれい)法師を加え、六月一日に豊前小倉着、南下して大橋・仲津から七日宇佐神宮に参拝、有名な耶馬渓(やばけい)を通って十一日に豊後(ぶんご)日田着、七日間滞在して俳筵を聞いたあと、山越えして肥後阿蘇(あそ)を横断し、二十三日に熊本に入っている。その後は、八代から佐敷を経て、七月五日海上から舟で茂木に渡り、陸路長崎に向う。長崎では去来門の卯七亭に杖をとどめ、翌日は京都から帰郷していた去来に会い、地元の連衆と賑(にぎ)やかな雅遊を持っている。そして七月十八日に長崎を出発、柳川から久留米経由で二十二日に大幸府(だざいふ)に参詣(さんけい)、しばらく博多に滞在するが、病に臥し、転地して黒崎や小倉に移るころ、ようやく健康を回復し、二十五日に再び黒崎に戻って句会、九月七日に下関へ向っている。支考が九州の地にあったのは六月一日から九月七日までだが、後半一か月はほとんど病床にあったので、実質的には二か月であり、かなり多忙なスケジュールで、地元の人たちとの交遊も十分にはできなかったはずである。ただ、その間、支考新製の『表合(おもてあわせ)』と称する一巻八句のみの連句を巻いて、座の数をこなしているのは、支考らしい機略の働きであった。この旅の成果として、紀行文『梟(ふくろう)日記』のほか句集『西華集』を編み、また俳論をまとめて『続五論』を刊行しているのである。

 

 筑紫長崎『梟日記』の旅

 ここから『梟日記』の旅の様子を、もう少し詳細に追ってみよう。『梟日記』という書名は序文にある「月華(つきはな)の梟と申(まうす)道心者」の句のとおり、「月華」すなわち「風雅」の道を説く「梟」者ということであろう。「梟」はむろん、各地で開催した「夜話」夜間の講莚に由来するのである。支考はのち六十歳になっても、自らを「梟一羽鏡に寒し年ごもり」と詠んけんこんでいるくらい、「梟」にこだわっている。その『梟日記』は乾坤二冊から成るが、乾の巻冒頭には、

 人もしらぬひの名はし負(お)ふ筑紫のかたにおもむく。道連く山はるかにして…

と、芭蕉と同じように、行く道遥(はる)かなる想いを綴っている。筑紫の地を踏んでからも、

 是より九国の道、東西にわかれて、行脚の心ざしさだめがたし…

とあるように、九州路は、中世の宗祇の『筑紫道記』のコースのように西南へ太宰府へ向う道と東南へ備後(大分)方面へ向う道に分かれていた。東南の道を辿った支考は、九月九日仲津で「五郎四郎伝」という俳文をものしている。「五郎四郎」とは小麦の餅を擬人化した名称で、これに興を発した支考は、「饅頭の肌やはらかに、かすてらの味ありて」と評し、さらに美男で知られた兵部卿(きょう)の宮に由来する兵部卿という香の名になぞらえつつ、「夕がほに鏡見せばや五郎四郎」の句を詠んでいる。この俳文はのち許六編の『本朝文選(もんぜん)』にもとられているが、俳文に対する支考の意欲が、旅先でも表われている。

 その後、肥後熊本に入ると、名物「水前寺海苔」を早速尋ねて「苔(のり)の名の月先(まづ)涼し水前寺」と詠んでいる。『猿蓑』の「鳶の羽」歌仙で芭蕉が「吸物(すひもの)は先(まづ)出来(でか)されし水前寺」と付句しているものである。また目的地長崎へは翌月七月五日、「艤(ふなよそほひ)して長崎におもむく」とあるように「海上三十里」を舟で渡り、九日到着すると早速、去来門下の卯七(うしち別号十里亭)宅へゆき、

  予又この地に来りて、酒にあそばず、肴にほこらず、門下の風流誰がためにか語らん。

    錦欄(きんらん)も鍛子(どんす)もいはず月夜かな

と吟じて、遊興の巷(ちまた)ではなく、月見の風流に徹しようという心境を示している。けれども翌十日には、素行の案内で縁日で賑う鍛冶屋町の清水寺に詣で、長い石段を着飾って登る丸山の遊女一行を眺め、なかでも太夫に付添う禿(かむろ)の将来をしみじみと思いやって「禿ノ賦」(「前麿山ノ賦」)と題する俳文を草したのであった。当時、京都の円山に似ているので名付けられた長崎の丸山には-西鶴の『好色一代男』でも、主人公世之介がやってきているが-太夫五十八人を筆頭に四百三十一人の遊女がいたことが遊女評判記『長崎土産』(延宝丸年刊)に記されている。

 この支考の「禿ノ賦」に対しては、去来が「遊女ノ賦」(「後麿山ノ賦」)で酬和したのであった。文末に掲げられた、

  いなづまやどの傾城とかりまくら

の句が示しているように、去来は苦界に生きる遊女の身をあわれみ、一瞬の稲光りにも似た歓楽の世界のはかなさを謳(うた)い上げている。

 長崎ではまた論客支考が得意とする「夜話」の会も開かれている。十二日の「牡年亭(ぼねんてい)夜話」では「名句は無念無相の間より浮びて、先師も我もあり」と言って、「有念相」ではなく、「無念相」の境地からの発想の重要さを説いている。のちの「虚実論」にいう「虚」の心の大切さであろう。

 その後、支考が長崎を出立する前夜の十七日にも別れの句会が開かれている。二十七日に福岡に入ってからは、博多湾を眺めて、

  されば、このところ、むかしはもろこしぶねも入りつどひたりときけば、今の長崎のやうにや件りけん。五里の浜といふ名は、此(この)あたりすべて一観の中なるべし。もろこしの菊の花さく五里の浜

と記し、先に自ら眼にした長崎の港の光景と重ねている。長崎では、支考が去ってまもなく、八月二十六日には、唐人屋敷番人吉浦宅助を首領とする大規模な抜け荷団が摘発され、五人磔(はりつけ)、五人獄門(ごくもん)、三人斬の処刑になるという事件が発生していた。船番や奉行所下役も加わって唐船から多量の荷を盗んでいた(『寛宝日記』)という。ちなみに去来の門人卯七こと蓑田八平次もその唐人屋敷の役人どあったのである。

              堀切実『俳聖芭蕉と俳魔支考』(角川書店 平成十八年四月三十日発行)