出 羽 三 山 

                   尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

 

出羽三山神社

出羽三山とは月山、羽黒山、湯殿山の総称で、推古天皇の時代、蜂子皇子(はちこおうじ)の開山である。皇子は父の崇峻天皇が蘇我氏に殺害された難をさけ、はるばる出羽国に入り、三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り、難行苦行の末、羽黒権現の示現を拝し、593年羽黒山上に羽黒山寂光寺を建立して権現に奉仕したという。次いで605年皇子は月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧請して羽黒三所大権現と称した。

その後、皇子の徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄大師や、修験道の祖といわれた役行者、また真言宗の開祖弘法大師、天台宗の開祖伝教大師、その弟子慈覚大師なども来山して修行をしたことが伝えられている。

かくて皇子の修行した道は、次第に発展して羽黒派修験道となり、羽黒山伏が羽黒山、月山、湯殿山を修行の道場として、次第に大教団となり、ついには全国に出かけて、信仰の宣布に努力したので、人々の信仰は年々三山登拝となって顕われて来た。

室町時代になると、羽黒派の蜂入りも盛んになって来て、その度数によって末派修験の院跡も相続され、また位階も昇進した。この様に羽黒派が隆盛になって来たのは、羽黒修験の熱心な努力によることは勿論であるが、三山の境内の霊境が然らしめたものであろう。江戸時代の参拝者を見ると、延享2年(1745)月山通過の道者は38,000人を数えた。羽黒派の末寺は延享年間の調査よると、3,782ケ院、また「遠国旦那場帳」によると、日本60余州のうち参拝者のなかったのは飛騨一国のみであった。

明治になって神仏分離が行われ、羽黒三所大権現は月山、出羽、湯殿山神社となり、1874年月山神社は国幣中社、さらに1914年官幣大社に、出羽、湯殿山両神社は国幣小社に列せられ、国の殊遇をうけたが、今は国家の管理を離れ、制度の変革はあったが、人々の三山に寄せる信仰そのものは依然として昔のままに持続され、今日に及んでいる。

 

o 羽黒山大鳥居

南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉中の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫その職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年(1372)羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡)に鳥居を建立させ羽黒山一の鳥居としたが、今はなくただ鳥居町の名を残している。今の一の鳥居は鶴岡から羽黒橋を渡り、担々たる庄内平野を横切って、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22・5mの両部の大鳥居がある。昭和4年(1929)山形市吉岡鉄太郎の奉納。

 

o 宿坊と魔除(まよ)けの引綱(ひきづな)

門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん) を構え、注連(しめ)を張った宿坊があり、霞場(かすみば)や旦那場(だんなば)を支配して、道者の宿泊や山案内をする。また、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないという。

 

o 随神門(ずいしんもん)

随神門より内は出羽三山神社の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄7年(1694)矢島藩主生駒讃岐守夫人の助力で建立した。仁王尊は、京都の大仏師法橋善慶の名作で、船で酒田まで運ばれてきたという。現在は、黄金堂の内縁に祀られている。明治の神仏分離の折、随身像を祀り随神門と名付けた。

 

o 末社羽黒山天地金神社

随神門の右手前にある朱塗のお社で、応永4年(1397)学頭法性院尊量により創建されたが、兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三(がんざん)大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたか、後、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りし、天地金神社となり、現在にいたっている。

 

o 継子坂(ままこざか)

随神門をくぐると両側に鬱蒼(うっそう)と老杉が生い茂り、昼なお暗き参道へと入る。参道は、下り坂となり祓川(はらいがわ)に架かる神橋に出る。この坂は随神門より羽黒山頂に至る表参道中、ただ一つの下り坂で継子坂の名がある。

 

o 爺杉(じじすぎ)

祓川を渡ると間もなく、左手に天をさす老杉がある。爺杉である。樹令一千年といわれ、天然記念物である。婆杉(ばばすぎ)と共に山の名物であったが、婆杉は台風で失われて今はない。

 

o 神 橋

月山麓を源とする祓川、須賀の滝の近く表参道に架る神橋で古来より幾多の修復の記録も見える。文禄2年(1593)5月大宝寺城主直江山城守兼続奉納の鉄製擬宝珠が歴史博物館に収蔵されている。全長20・8m・幅4・48mの朱塗神橋は昭和52年(1977)6月13日架け替え修復したものである。

 

o 祓川(はらいがわ)と須賀(すが)の滝

随神門より、継子板を下ると祓川に架る神橋にでる。昔、三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離(みずごり)をとり、三山への登拝の途についた。朱塗の美しい神橋は見事な浸蝕谷(しんしょくだに)にかかり、向いの懸崖(けんがい)から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しく、夏にはかじかの鳴く声も聞かれる。滝は承応3年(1655)時の別当天宥により月山山麓水呑沢より約8の間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。また祓川の神橋を境にし山上と山麓と呼び分け、山上には明治維新まで本坊を始め30余ケ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。

 

o 羽黒の石段

50代執行別当天宥法印(てんゆうほういん)が、宝鏡院という「無妻の山伏」に命じて勧化させ専ら篤志家の寄進や、信徒の浄財を仰いで慶安元年(1648)五重塔わきの普賢堂前から敷き始め、天宥法印在世中に八幡坂(三の坂上)まで敷かれた2446段の石段があり途中一の坂、二の坂、三の坂の急坂がある。

 

o 羽黒山杉並木(特別天然記念物

随神門より羽黒山項まで約2kmの参道の両側は、樹令300年~600年に至る老杉の並木で、特別天然記念物に指定されている。

 

o 五重塔(国宝)

古くは瀧水寺の五重塔といわれ、附近には多くの寺院があったが、今はない。一の坂の登り口左手に素木造(そぼくづくり)、柿葺(こけらぶき)、三間五層の優美な姿でそびえ立つ杉木立の間に建っている。塔は長慶天皇の文中元年(1372)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。

 

o 芭蕉天宥法印追悼の句文をたむける

第50代執行別当天宥は江戸初期の人で、羽黒山中興の祖と仰がれている。天宥は戦国争乱のあとをうけて、衰微した羽黒山の振興を図り、当時、黒衣の宰相といわれた東叡山の天海大僧正の弟子となり、以来奉仕してきた真言宗を天台宗に改宗、一山の職制を改め、衆徒の活動を促す一方、羽黒山の石段を敷き、現在の杉並木を始め、植林をして境内の壮厳を計り、山上の別当寺を中腹に移し、南谷に結構壮大な別院を建立し、また延々8の山奥から引水して田を開き、また祓川の懸崖に滝を落すなど業積まことに大なるものがあったが、反対派の策謀にあい、伊豆の新島に流罪となり、ついに延宝2年(1674)10月24日同島に没した。時に81歳であった。元禄2年(1689)6月3日、名所旧跡(歌枕)を訪ねて、「おくのほそ道」を行脚した芭蕉は、門人曾良を伴って、最上川を下り、清川狩川を経て羽黒山に詣でた。先ず羽黒の門人呂丸をたずね、本坊にて別当代会覚阿闍梨に謁し、南谷の別院に宿り、手厚くもてなされた。天宥の業績をしのび追悼の句文を手向(たむけ)、「其玉や羽黒にかへす法の月」と詠んだ。

 

o 南谷(県指定史跡)

二の坂の急坂をのぼりきると、しばらく平坦な敷石道がつづく、左に供養場を、右に三日月塚や旧本坊跡をすぎて、二の坂にかかる。このあたりの杉並木は羽黒山で最も美しい。三の坂の登り口から右折して崖に沿って老松や老杉の下道を行けば約550m(5丁)ほどで芭蕉が「おくのほそ道」行脚の際、門人曾良と逗留した南谷の別院跡がある。南谷は寛文2年(1662)天有法印が築造したり別当寺の別院で紫苑寺と称した。当時、坊舎の結構壮大は人目を驚かしたが、火災や大風の被害をうけ、さらに明治の初め、神仏分離が行われ、建物は全く破壊され、今は一部の礎石を残すのみとなった。しかしながら、院をめぐって池を配した庭園は周囲の自然を巧みに取入れて閑寂幽遽(かんじゃくゆうすい)、名園の面影を今に伝えている。芭蕉の「有難や雪をかほらす南谷」の句碑がある。

 

o 芭蕉の像

  山形市 株式会社でん六社長 鈴木伝六氏奉納

  山形市  小野田高節氏作

  昭和48年(1973)6月20日竣工

 

o 呂丸の碑

羽黒山麓の手向、烏崎稲荷神社境内に呂丸追悼句碑がある。呂丸の没後100年たった寛政5年(1793)建立されたものである、

  表面=辞世  消安し都の土に春の雪      呂丸

  右面=追悼  死に来てそのきさらぎの花の陰  野盤子

         雁一羽いなでみやこの土の下   洒落堂

         当婦より哀は塚のすみれ草    芭蕉庵

  左面=寛政五癸丑二月    施主 三峯 翠古 執筆竹甫

 

o 斎 館(さいかん)

三の坂を登り切ると、間もなく左手に斎館がある。もと華蔵院といい、元禄10年(1697)の再建で、正穏院、智憲院と共に三先達寺院の一つで、羽黒山執行別当に次ぐ宿老の住した寺であったが、明治の神仏分離の際、神社斎館として残った。江戸時代には山内に30余坊があったが、すべて取壊され、往時の山伏達の住した遺構として今に残る唯一の建物である。

 

o 羽黒山の碑(いしぶみ)

・ 神宮祭主北白川房子様歌碑(山頂鏡池前)阿か阿かと朱ぬりもはゆる出羽のやしろとはに栄えむ御国の鎮と昭和48年(1973)開山1380年記念事業完成に際し、神宮祭主北白川房子様より御祝歌を賜る。

 

・ 芭蕉野口三山句碑(山頂手水舎脇)

    雲の峰いくつくづれて月の山

         小倉中納言豊秀卿

    加多羅禮奴湯登廼仁奴良須當毛東迦那

         日野大納言資愛卿 

    涼しさやほの三日月の羽黒山

         転法輪内大臣公修公

 

元禄2年(1689)芭蕉翁登拝、南谷別院に留杖の際の三山の句(文政4年〈1821〉5月揮毫文政8年〈1825〉建立)。羽黒山荒澤寺より月山旧道を少しく登った右の丘にあったものを昭和40(1965)年7月羽黒山頂手水舎脇に移転。

 

 ・ 虚子・年尾・汀子三代句碑(車道水舎脇)

    俳詣を守りの神のすゝしさよ

    月山の裏に表に残る雪

    なつかしやここに縁のつるてまり

 

  昭和31年(1956)6月5日駕籠にて表参道を登り、6日斎館にて句会を興行。

  昭和56年(1981)7月15日親子の句碑建立。

  昭和62年(1987)6月15日孫の稲畑汀子句碑建立。

  三代句碑が建立されているのは他に類なく名所となっている。

 

  ・ 芭蕉句碑(南谷紫苑寺跡脇)

        有難や雪をかほらす南谷

      文政4年(1821)5月建立西大寺三位隆明揮毫 

  ・ 野口雨情詩碑(斎館前寺跡)

    出羽の三山羽黒の杉は霧にまかれて夜は寝る

 

野口雨情が、昭和5年(1930)10月18日羽黒山に詣で、参拝帳に誌したものを昭和54年(1979)7月20日新潟県関川出羽三山講建立奉納。

 

  ・ 西條八十詩碑(五重塔上一の坂にある)

    五十路の夏にわけのぼる羽黒の峯の

     梅雨雲やまた見んことのあるやなしと

      ふり返りゆく山つつじ

 

雨情、白秋とならび詩人である西條八十が、昭和24年(1949)6月8日古賀正男と羽黒山に詣で、参拝帳に誌したもので三節からなる一節を昭和55年(1980)5月12日に建立除幕したものである。

 

・筆塚「舎英咀華」(祓川神社上脇にある)

 

「文字の眼目を良くかみわけてその意味を胸中に蓄へる」の意書為羽大泉荘九十六翁古梅先生雅属銭少席(九は五の誤り)裏面に刻字あり嘉永元年(1848)戊申季秋弭間常敏建立。

 

o 山頂鳥居附近

参道の石段のつきるところ朱の鳥居がある。もと江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったが、戦争で供出された。後に庄内の生徒や学童の寄附によって建立されたものである。鳥居の手前の坂を十五童坂といい、坂の左に、一山の貫主の住んだ執行寺跡、右に本社のかぎを取扱った鑰取(かぎどり)役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院があった。 

鳥居の右わきに開山能除太子が坐禅をしたという御坐石がある。

 

o 蜂子神社

表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳鳥神社と並ぶ社殿で、出羽三山開祖蜂子皇子を祀る。

 

o 蜂子皇子御尊影と御書

出羽三山開祖蜂子皇子は推古天皇の時代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽国に伝え、人々に稼穡〈かしょく)の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くということから能除太子と称せられ、舒明天皇の13年(641)10月20日御年91歳で薨去(こうきょ)した。蜂子神社の祭神として祀られ、墓は羽黒山頂バス停より本殿への参道途中にあり、現在、宮内庁の管理する所となっている。

また、蜂子皇子の姿は、顔がみにくく、まなじり長く、髪の中まで入り、口は大きく耳の根本までさけ、鼻は下にさがって一寸もたれ、顔の長さは一尺もある異様な姿であったと伝えられている。

 

o 三神合祭殿正面〈三神社社号額および力士像〉

羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したといわれる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祭しているので建物を三神合祭殿と称している。月山、湯殿山は遠く山頂や溪谷にあり、冬期の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例臨時の祭 典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古く大堂、本堂、本殿、本社などとも称せられ、羽黒修験の根本道場でもある。

内陣は三尸(さんし)前の扉にわかれ、正面中央に月山神社、右に出羽神社、左に湯殿山神社を祀る。本社は大同2年(807)建立以来、しばしば造替を行い、近く江戸時代においてさえも四度の造替が行われた。慶長10年(1605)最上義光の修造を始め、明和5年(1768)に再造、29年を経た寛政8年(1796)炎上、文化2年(1805)再建したが、同8年(1811)またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年(1813)荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当らせ、文政元年(1818)成就した。これが現在の合祭殿である。

 

o 三神合祭殿(さんじんがっさいでん)内部

三神合祭殿は一般神社建築とはことなり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており月山、羽黒山、湯殿山の三神が合祭されているところから、合祭殿造とも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押(なげし)には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書。

 

o 合祭殿(国指定重要文化財)

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派修験道独特のもので、高さ28m(9丈3尺)、桁行24・2m(13間2尺)、梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総漆塗で、屋根の厚さ2・1m(7尺)におよぶ茅葺(かやぶ)きの豪壮な建物である。

現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので、当時工事に動員された職人は 大工35,138人をはじめ、塗師、葺師、石工、彫刻師、その他職人合せて55,416人、手伝い人足37,644人、これに要した米976余石、建築費5,275両2歩に達した。このほかに多くの篤志寄付をはじめ、山麓郷中の手伝い人足56,726人ほどが動員された。建築当時は赤松脂塗りであったが、昭和45~47年(1970~72)にかけて開山1380年記念奉賛事業の一環として塗替修復工事が行なわれ、現在見るような社殿となった。なお、平成12年(2000)5月25日に国の重要文化財に指定された。

 

o 鏡池(かがみいけ)

この御池は羽黒権現の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変らず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え、厚い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。

 

o 鐘楼堂(しょうろうどう)と建治の大鐘(国指定重要文化財

堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺で、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年(1618)再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年(1275)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口経1.68m(5尺5寸5分)、口唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さl3cm(4寸4分)、龍頭(りゅうず)の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。上帯の飛雲文は頗(すこぶ)る美事(みごと)な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池中蓮華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く稀有(けう)である。また、天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって敵の艦船を全部海中に覆減したので、鎌倉幕府は、羽黒山大権現の霊威をいたく感じて鎌倉から鐘大工を送り羽黒山で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。なお建治の大鐘は昭和48年(1973)6月6日、また鐘楼は平成12年(2000)5月25日に国の重要文化財に指定された。

 

o 天宥社

羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。入口の燈篭は天宥法印の墓地のある東京都新島村より昭和63年(1988)6月7日奉献されたものである。

 

o 末社建角身神社

羽黒の末社で、もと行者堂といって役行者を祀る。足の弱い者が下駄を供え健脚を祈る風習がある。

 

 

o 末 社

出羽三山には百一末社と称し、羽黒山を始め月山、湯殿山の山巓、または幽谷に多数の末社が散在している。末社は左から羽黒山の大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祇神社、白山神社、思兼神社、八坂神社。

 

o 廃仏毀釈

山頂だけで清僧院主の23寺院が毀釈された。

  ①壇所院 ②善台院 ③円殊院 ④玄陽院 ⑤儀本院 ⑥宝徳院 ⑦酉性海 ⑧愛染院

  ⑨東光院 ⑩見善院 ⑪福円院 ⑫三学院 ⑬智憲院 ⑭三穂院 ⑮積善院 ⑯宝積院

  ⑰竹之院  ⑱南流院  ⑲能林院 ⑳高陽院 ○福泉院 ○福乗院 ○華蔵院(現存「斎館」)

 

o 六字橋

「念仏橋」とも称し、天宥別当の作という。黄金堂の下の堰にかかっていたが、道路改修の際、現在地に移築した。四枚の欄干石一つ一つに「南無阿弥陀仏」「南妙法蓮華経」と、楷書・隷書・行書・草書に彫り分けている。頭部の擬宝殊も美しく、橋板も二枚の石の組み合わせであった。

 

o 東照社(東照宮) 鶴岡市有形文化財

日光、静岡の久能とともに日本三大東照宮の一つに数えているが、諸説ある。天宥別当は、上野東叡山・輪王寺の天海上人の弟子となり、東照宮の名号一巾を戴き羽黒山に創建したもの。「鎮座以来、毎月17日別当衆徒神前において法楽これを勤める」と『三山雅集』にみられる。

 

o 東照社前手水鉢  鶴岡市有形文化財

天宥作。四方の側面に装飾が刻まれている。東側・波と鯉天女  西側・釣りをする翁

                      南側・牡丹と獅子  北側・波と龍

 

o 峰中籠堂(ぶちゅうこもりどう)

秋の峰の二の宿を行う行堂であるが、現在は一の宿と二の宿とをこの峰中籠堂で行う。

 

o 吹越(ふきこし)神社

吹越は羽黒修験の根本道場である。吹越神社があり、三山の開祖蜂子皇子を祀る。昭和62年(1987)6月改築された。

 

 

o 出羽三山歴史博物館と羽黒山の文化財

羽黒山頂の旧東光院・見善院の両院跡の地に昭和45年(1970)新築、同6月開館した。羽黒山に相応しく豪壮な妻入流造り、和風6階建鉄筋コンクリート造りである。2階が本来の博物館で重宝展示室及び収蔵庫があり、常時、社宝を展示する。1階は広い集会室兼休憩室及び展示室があり、四季折々にいろいろな催物などを行う。

当社の宝物は羽黒本社を始め山内30数ケ院が明治の神仏分離の際に棄却された本尊をはじめ幾多の貴重な宝物が失われた現在、当館所蔵の多くは旧本坊所有のもののみで、重文燈篭棹、重美刀(銘月山)、重文御手洗池出土古銅鏡190面、山伏笈(室町中期)、直江兼続奉納の擬宝珠、銅製狗犬(慶長8年1603)、寛政の三山総絵図、芭蕉筆天宥別当追悼句文、羽黒の俳人近藤左吉宛の芭蕉の書翰などがある。

また、当館の開館にあたり寄進された中国古鏡303面(先漢鏡10面、前漢鏡20面、漢鏡43面、隋鏡16面、唐鏡32面、宋鏡以降182面)がある。これは川村コレクションとして有名な川村宗嗣氏が多年中国で蒐集されたもので、周朝(3000年前)から清朝(780年前)まで各時代の中国鏡を網羅しており、その点では世界に類のない蒐集である。当社出土の190面の和鏡と対象して古鏡研究家に多大の裨益(ひえき)を与えるであろう。 

 

 月山への道

 

羽黒山から月山への道は、古くから萱野(かやの)3里、木原3里、石跳(いしはね)3里、合せて9里(36)である。旧参道は、海道坂(かいどうざか1合)、大満(だいまん2合)、神子石(みこいし3合)、強清水(こわしみず4合)、狩籠(かりごめ5合)、平清水(ひらしみず6合)合清水(ごうしみず7合)、弥陀ガ原(みだがはら8合)、仏生池(ぶっしょういけ9合)、月山頂上(10合)と登り、各合目毎に末社が祀られている。現在は、8合目弥陀ガ原までバスが開通しており、泊小屋は春から秋にかけて、弥陀ガ原、仏生池、月山頂上に設けられ、宿泊や休憩することができる。

三山の登拝は、先ず郷里の行屋(ぎょうや)の精進潔斎から始まる。身も心も清め.白の浄衣をつけ、木綿注連(ゆうしめ)をかけ、清浄な姿で数十里の道を出羽三山に運ぶのである。かくして山麓の宿坊や、羽黒山頂の斎館(さいかん)に一夜の参籠を遂げ、羽黒の本社に詣で神楽や祈祷を捧(ささ)げ、山先達の導くままに「あやに、あやに」の神文を唱え、また、「六根清浄」の掛念仏で、拝所拝所を駈ける。麓から山巓(さんてん)へ、山頂から渓谷へと巡拝、月山本宮を拝し、湯殿山本宮に詣でるのである。

 

o 月山中之宮

月山8合目(弥陀ガ原)に御田原神社があり、月山中之宮として、祈祷・神札等を取扱う。御田原小屋を月山御田原参篭所として、神社直営にて宿泊・昼食等を供する。

 

o 月山8合目弥陀ガ原

羽黒より登山バスで約1時間、海抜1400m附近につらなる湿原である。この湿原は高冷地のため枯草が腐ることなく、何万年となく積み重さなり出来た泥炭層の湿原で、6月から7月の頃は、一面のお花畑となる。小さな湖沼が散在し、あたかも神々の御田を見るようである。弥陀ガ原中央には御田原神社がある。

 

o 東補陀落(ひがしふだらく)

御田原神社から東方へ2下ると、東補陀落がある。昔、立谷沢川の溪谷を遡(さかのぼ)って来た人には、お浜池をへだてて見る奇巖怪石群が補陀落と観じられたのであろう。附近には末社池上神社、濁沢神社などの拝所がある。

 

o 月山神社

海抜1984m、世界でも珍しい半円形のアスピーテ型火山で、頂上の「おむろ」に月山神社があり、月読大神を祀る。約千年前につくられた「延喜式神名帳」にのる名神大社で、古い時代から朝廷をはじめ庶民の信仰が篤く、山形市には南北朝時代の貞治7年(1368)の銘のある月山結集碑があり、一村百余人の登拝講中のあったことを伝えている。もと東北唯一の官幣大社で、国の殊遇を受けた。神社は水を司る農業神として、また航海、漁労の神として広く衆庶の信仰をあつめている。

 

o 湯殿山月光坂

月山頂上から清め川に沿うて湯殿山に下る道と、志津から清め川に沿うて湯殿山に詣る道とが装束場で交る。この装束場から月光坂の上に立てば、眼下に金月光、水月光の峻崖をへだてて、湯殿山神社本宮が望まれる。月光坂は三山参詣随一の難コースである。

 

o 月山神饌(しんせん)池

月山「おむろ」から約200m南方にある。このお池の水を、月山の御宝前に日々お供えするので、その名がある。不思議なことに真夏でも涸れることがなく、いつも満々と清水をたたえている。この池は月山本宮の社務所や、山小屋の用水としている。

 

o 残雪を行く行者(ぎょうじゃ)

月山は豊富な残雪となだらかな山容のため内地では他に類を見ない、春、夏スキー場として全国  に知られている。月山頂上の眺望は雄大で、朝日連峰や、鳥海山、蔵王山、吾妻、磐梯の遠望、さらに雲海の遥か彼方に男鹿半島や粟島、佐渡ガ島より能登半島を見ることが出来る。月山頂上から西に尾根づたい8の道を湯殿山におりる。鍛冶屋敷、牛ガ首を経て柴燈森に至れば、南斜面一帯の大雪渓は7月頃まであり、春スキーで賑う。さらに姥ガ岳を経て、清め川にて水垢離をとり装束場で装束を改め、金月光、水月光の嶮(けん)を下って、湯殿山の御宝前に詣でる。

 

o 一般国道112号(「月山花笠ライン」)

六十里越街道は昔より湯殿山参詣道としての要路で、内陸・庄内を結ぶ文化・産業の交流道路である。現在の国道は昭和45年(1970)以来昭和57年(1982)7月竣工まで12年間の長い年月かけて拡張整備された。

一般国道112号は、内陸部を縦貫する13号と沿岸部を縦貫する7号を結ぶ横断道路で、山形市を起点として寒河江市-西川町を経て磐梯朝日国立公園月山・湯殿山の景勝地を越えて鶴岡市と連絡する内陸横断路線である。1982年(昭和57)7月、「月山新道(国道112号)愛称募集委員会」により、開通式にあわせて「月山花笠ライン」と名づけられた。

 

 

 湯 殿 山

湯殿山神社

 

o 湯殿山神社

月山から西に尾根づたいに下ること8、月山の絶頂より流れ落ちる楚字川のほとり、幽邃(ゆうすい)な仙境に、悠久の太古より、滾々(こんこん)と湧出する出湯と霊巖とを御霊代として、大山祇神、大国主神、少彦名神の三神が鎮まります湯殿山神社(1,100m)がある。

白衣をつけた、三山参詣の道者が、肺肝(はいかん)よりしぼる「あやにあやに」の三山拝詞や「六根清浄」の掛念仏の声が、溪間(たにま)より響き渡る御滝の響に調和して、まことに崇高である。元禄2年(1689)俳聖芭蕉は門人曾良を伴ひ、湯殿山に詣で、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句を残している。人曾良は「湯殿山銭ふむ道の泪かな」、また、御宝前入口に月山より湯殿山に詣でた歌人齋藤茂吉の「いつしかも月の光はさし居りてこの谷間より立つ雲もなし」の歌碑がある。

 

o 御神体巡拝

三山が仏道修行であった時代、羽黒山には観音、月山には弥陀、湯殿山には大日を各本地としていたから、羽黒修験により極意三関三渡ということが説かれた。まず羽黒山で入峰修行し、月山に登り艱難(かんなん)に堪(た)え、諸の仏典念誦の功徳で諸の迫害に打ち勝って湯殿山に下り即身成仏する。すなわち生身の人間が生きながら、大円鏡智に徹して、仏になる目的を遂げることの出来る お山である。だから、湯殿山は俗界でないという意味で、古来人工を施した御社や、寺院、道場を建てるべきでないという思想から社殿を設けない。この様に清浄な霊地であるので、古くは装束場にて新しい草鞋にはき替えてお参りしたが、現在は入口にて履物をぬぎ、「はだし」になり、お祓いを受けてからでないとお詣りは出来ない。

湯殿山参詣には往古より先祖に会えるという所から御宝前近くの霊祭場に戒名を書いた紙を巖にはって供養する岩供養の風習がある。

 

o 御滝神社と滝の行

湯殿山神社の背後から90mの鉄の梯子を下りると、御滝神社の滝壷に出る。滝は梵字川の激流が湯殿山神社の御神体脇を急に落下して、巖を噛んで流れる。

昔はこの滝を不動尊として拝したが、今は御滝神社という。この滝から神橋に至る間の両岸には13の末社が祀られ、この末社を巡拝することをお沢めぐりという。真夏でも肌に突き刺す様な雪解け水に滝の行をする行者が多い。

 

o 行人塚(ぎょうにんづか)と即身仏(そくしんぶつ

湯殿山の行人の修行は一期千日であった。千日行人の名がそこから出て来る。行人は萱の苫屋を仙人沢の各所に設け、各修行に励んだ。仏説に依る弥勒菩薩出現に会おうとして即身仏(ミイラ)になった行人も多い。数十の行人碑には三千日、五千日の参篭を刻んでいる。一世行人は、肉食妻帯をたち苦行した。表口は仙人沢、裏口は玄海の行屋に 篭る。木食しながら毎日垢離をとり、一日三度の湯殿の宝前参拝を千日、三千日、五千日という想像を絶する苦行をつゞけ自らの罪穢れをとり、他人の苦しみを代って受けようとするものである。しかも即身成仏後、永く遺体をのこして世の人々を救わんとした。 湯殿山系の即身仏は荒行により体内の脂肪分をとり、入定後腐敗せず乾燥してミイラとなる。現在保存されている即身仏は庄内および新潟県北部地方に10数体ある。

 

o 出羽三山と齋藤茂吉

茂吉の初詣では明治29年(1896)父に伴われて15歳の時である。昭和3年(1928)7月、47歳で出羽三山を参拝。昭和5年(1930)49歳の時、長男茂太の初詣 に付き添う。昭和35年(1960)8月、茂太は長男茂一の初詣に付き添う。茂吉の詠んだ三山の歌は178首。「わが父も母もいまさぬ頃寄りぞ湯殿の山に湯はわき給ふ茂吉」、台座には昭和5年(1930)7月20日父に連れられ参拝した茂太の「想出の記」を寄稿いただき刻した。新潟県関川講中一の瀬巖氏ほかの方々が昭和57年(1982)に湯殿山本宮入口の地に建設奉納された。

 

 

山麓・宿坊街

 

o 山麓村内   

「手向町というは残りなく山伏町にて、長さ五、六町、大概よき町なり。無官の山伏は国中国中へ配札をして、あるいは祈祷をなし、あるいは参詣せる人びとの先達して教え、または商いもせる山伏も多しという。(中略)手向町よりは馬卒・人足皆山伏にて、惣髪の者駕籠などをかくは不似合物にて、人びと笑いしことなり。辺鄙地といいながら、いろいろの珍しきことを見聞きせること。」

(『「東遊雑記』より)

 

o 天拝石

伝説によると、開山がこの石を祭壇として天にまつったものだという。

この石ももとは桜小路の安藤太美弥という人の家の門前にあり、その手前のだらだら坂を天拝坂と呼んでいた。それでなくとも幅員のせまい道路なので、交通のさまたげになるばかりでなく、犬が小便を引っ掛けたり、子供がのぼってあそんだりするところから、村常会の問題となり、昭和16年(1941)の早春に雪の上を村中総出で今の所に移した。大正年間に、秩父宮と高松宮が羽黒山にこられた際にも、県の土木課では、この石をくだくか別の場所に移すか、しようとしたのであるが、村民の反対にあって、沙汰やみになったという前例もあるので、このときの移転にも地元の桜小路からは苦情がでるだろうとあやぶまれたのであるが、新体制運動の発足当時であったから、村常会の決定にしたがわないと、「あいつは旧体制だ」といわれることになるため、それがおそろしくて、反対を唱えるものが一人もいなかった。しかし「この石を移そうとして手をつけると、神罰をこうむる」とか「石に根が地下にはびこっていて、ちかくの祐長坊の井戸端までいっているそうだ」などという話があったので、当日は供え物をするやら、三山神社の神職をまねいてお祓いをするやらして、おそるおそる手をかけてみると、案外なことには根が浅くて、するすると動き出し、無事に今のところにおさまったのである。

(戸川安章箸『羽黒山二百話』より)。(注)国家総動員法公布昭和13年4月1日

 

o 随神門鳥居  鶴岡市有形文化財

正徳6年(1716)5月奉納と刻まれたこの鳥居は、鶴岡の荒町に住む深野麻右衛門が寄進したものである。史料によると、享保4年(1719)正月18日海送して酒田に着き、最上川筋沢新田より運び、越前より2人の石工が付き添い3月18日黄金堂前庭に建立する、とある。昭和37年(1962)5月、道路舗装の際、石灯籠とともに現在の場所に移された。

 

o 名誉市民・星野勇三出生地跡 宮本坊

北海道大学名誉教授、メンデルの法則をはじめて日本に紹介した園芸育種学の権威者。郷里の子弟育英のため北大構内に荘内寮を建て、また、酒田日和山公園、札幌大通公園の設計を担当した。

(『庄内人名辞典』より)

 

o 桜小路

桜峠という称せる所は上座の山伏にて、門前に桜樹もうえならベし所およそ三町余、楓の木の生垣をし、左右の寺院あしからず、風景ある所なり(『東遊雑記』より)。

 

o 大聖坊

江戸初期に越後から入った。初代清心は貞享3年(1686)に没し、「一千万遍」という俗称があったらしい。東補陀落の下方にある濁沢大聖不動滝の濁沢大聖不動明王を江戸時代から司祭しており、神殿には本尊として「大日大聖不動明王」が祀られている。西川須賀雄によって羽黒山の神仏分離は強行されたが、山麓山伏の各戸の本尊は免れたものもあり、神仏習合は連綿と続いていたということもできる。

江戸時代から相馬藩領内を霞場としており現在も続いている。一昨年、十三代目の星野尚文が、山伏として最後の修行である「冬の峰」の100日修行を修めた。

 

o 学校屋敷跡

明治7年(1874)、積善院(現在の正善院)を借家として創立した「手向学校」を、明治17年(1884)7月4日「大東小学校」と改称し、洋風二層木羽葺、建築費2742円88銭8厘で建立。現在の「羽黒第一小学校」は大正15年(1926)11月4日、現在地に新築した。

 

o 名誉市民・寺岡謹平出生地 南林坊

海軍中将、中華事変で軍令部参謀、空母蒼竜ならびに赤城の艦長。第一および第三航 空艦隊司令長官。終戦後、出羽三山神社総代をつとめるなど郷土の文化向上に尽力した(『庄内人名辞典』より)。

 

o 荒 町

芭蕉の弟子図司呂丸の住んでいた町。江戸中期に荒町を火元にして、山麓の大半を焼失した火事が三回あった。このようなことからか、荒町から旧村はずれまでの道路幅が非常に広い。火事の火元は町名が悪いのではと「亀井町」に町名変更を申し出、許された。しかし二百数十年後の現在でも手向の人々の多くは「荒町」と言い、バス停も「荒 町」である。泉地区の「野荒町」という町 名は、治安が悪かったので「荒町」に住んでいた山伏2人を野に下ろしたこによるといわれている。

 

o 黄金堂 国重要文化財

・左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルルニ不及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衞門宅ニ至ル(『曾良旅日記』より)。

「源頼朝が平泉の藤原氏を攻めるにあたって、羽黒山の権現に戦勝を祈願した。そして奥州を平定すると、その恩にむくいるために羽黒山上の本社を改築し、ふもとには黄金堂を建立した。このとき、頼朝の命を受けて工事の監督をした土肥次郎実平は、工事の途中で病死した(戸川安章箸『羽黒山二百話』より)。

堂内の「三十三躰正観音」は、庄内札所33霊場第一番になっており、像は市指定文化財。

 

・仁王門の仁王尊(木像金剛力士立像) 県指定文化財

この門に立っている仁王さんにわらじをおさめると、足が達者になり、からだも丈夫になるというので、信者の奉納したわらじが、格子戸に鈴なりに下がっている。仁王さんはそのわらじをはき、毎晩、信者にかわって、月山におまいりをしてくださるのである。このため、奉納のわらじが日ごといたんでゆく、早くいたんだわらじは仁王さんがこれをはいて、はやばやと代参してくれたからだといって、奉納者はよろこぶのである。

この仁王さんのからだには、いたるところに紙つぶてがうちつけてあって、まるでいぼのようになっている。これは頭の悪い者は頭に、胸に病気のあるものは胸に、というふうに、紙つぶてをなげたからである。それが、うまくはりつくようなら、病は治るといわれているため、堂守がいくら払い落としても、じきに、つぶてだらけになってしまう(戸川安章著『羽黒山二百話』より)。 

 

・ 正善院 天台宗名誉市民・戸川安章生誕地

黄金堂の別当なり、是も三十余院のそのひとつ也、此寺に即堂といへる人住居せしが程なく院職を辞し麓の幽閉の気味深き事を甘ないかつ拝倡にふけりて呂丸英士が風義を慕ひて区々秀たりしに五とせあまりさきに身まかりける吟友の交り忘れがたく存命の一両句をとりここにしるし侍るとろとろ寝醒るや雁(とり)の帰る声即堂(『三山雅集』より)。

 

・ 「ドニワ」(堂庭)

手向の人は、黄金堂のことを「ドニワ」(堂庭)と言っていた。「黄金堂」という呼び方はしていなかった。神仏分離以前は、まさに諸堂宇の建ち並ぶ境内だったのである。廃仏毀釈によって次の堂宇が破壊された。歴史的蛮行であった。

⑨音堂 ②地蔵堂 ③観音堂 ④弁天堂 ⑤月山堂 ⑥釜堂 ⑦弥陀堂 ⑧大日堂

  ⑨弥勒堂 ⑩下居堂 愛セン堂(「羽黒山繪図」文政13年 1830)。

 

o 名誉市民・池野勇誕生地

苦学力行して大正3年(1914)医師となり、昭和16年(1941)鶴岡に開業。困窮者の救済に努めるなど社会事業に貢献した。鶴岡市第1回市政功労者、日本医師会 最高優功章、シュバイツアー賞などを受ける。郷里羽黒町のため社会福祉基金への寄付、池野文庫の中央公民館への設置など多くの奉仕活動をした(『庄内人名辞典』より)。

 

o 自坊小路

往時の門前集落風情が残る池ノ仲集落の一角。長い黒塀や土蔵を備えた旧家が見られる。小路の突き当たりに自坊屋敷跡がある。

 

o 芳賀兵左衛門 栄昌坊

先祖は、字都宮氏の支城・真岡城主(6万石)、豊臣秀吉に追われ、上杉、会津など各地を流浪した後、江戸の初めに手向の池の仲に定住。修験者となり栄昌坊を名乗る。羽黒に来て四代目の俳号・呂笳が「三山雅集」を編む。文人がよく出ている。大正13年(1924)6月東北農務局による「庄内地主番付]によると西前頭19枚目となっている。屋敷裏の庭園には芭蕉の句碑など多数の碑がある。