最上川舟下りのいわれ

尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

 

  この区間の舟運の特色は次の三点で、最上川中、上流では余りみられないことである。

大石田の船役所趾を流れる最上川

 第一は、内陸から日本海の酒田港にでるための唯一の通路であるということである。出羽丘陵を横切る陸路はないに等しい。したがって荷物はもちろん、旅人も船路にたよるしかない。「仙人どろ」と呼ばれ、風雨に合えば、最上川最大の難所にあたるところであった。元禄二年、松尾芭蕉も「おくのほそ道」紀行で、本合海から清川までは船で下っている。

 第二に、この区間の舟着場は本合海、古口、清川の三つがあるが、あとの二つはいずれも藩の番所にあてられたところである。古口は新庄藩、清川は庄内藩の境番所で、古口から藩界まではかなり離れているが、山岳と川の関係から、番所としての役目を果す上では充分な位置にあったといえよう。本合海も舟着場として発展するのは近世後期で、本来の河岸場ではない。

 第三に、この区間は、庄内藩の参勤交代の通路にあたっていることである。最上川で参勤交代に利用する通路は他になく、清川と清水間で「御召船」が使われた。またこの区間は三山参りのために乗船するものが多く、宝永六年(一七〇六)の五月から八月の間に、この年は丑年であったこともあって、三万六、〇〇〇人余が古口を通過したという記録がある。三山導者船は大石田からも出ているが、「最上峽」を下り、清川口(〜手向)から登るものがもっとも多かったとみられる。

 

最上川県立自然公園(立川町・戸沢村

 最上川の中流から下流にかけての自然公園。最上峡と呼ばれる地域で、最上郡戸沢村大字古口から東田川郡立川町大字清川までの一四キロメートルは景観にすぐれ、清川対岸の飽海郡松山町も含む。面積一、八四八へクタールのうち九六%を戸沢村が占めている。最上川が先行谷となる最上峡は、山内とも呼ばれ、両側は三〇〇〜五〇〇メートルの山地で新第三記層の泥岩からなり、深い横谷を造っている。

 山地にはブナ・ミズナラ・ケヤキがあり、山地から流下する白糸の滝など数々の滝がある。最上川の南岸にはスギ林が分布し、山内杉、土湯杉・仙人杉などと呼ばれてきた。老木が多く、ブナ・ミズナラ・サワグルミなどと混交しているところもある。

 

古口大橋(戸沢村

 最上川に架かる橋。主要地方道新庄戸沢線が通過。最上郡戸沢村大字古口と大字津谷を結ぶ。昭和四十二年竣工。メタルトラス鈑桁式で、橋長四一七・一メートル・幅員六メートル。明治十三年本合海新道の起工とともに新庄升形線(現主要地方道新庄戸沢線)の延長として、名高・古口地区までの新道建設が進められた。当時の最上川越えは、皿島〜真柄間で渡船場を利用していた。

 

古口河岸(戸沢村)

 最上地方、最上川中流にあった河岸。古口から西は最上峡にあたり、板敷越の陸路は急峻で、通行はほとんど舟運に頼っていた。また月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山行者の乗船口としても知られ、河岸はにぎわいをみせた。新庄藩は最上川舟運を重要視し、享保八年に口留番所を置いた際に川船改所も併置した。最上川下げの諸荷物はすべて当地で改めを受け、酒田からの上り荷はそのまま通ることが許された。また対岸にも番所が設けられ、夜中には番人が出向いて大綱を張り通し、不正な通り船を阻止したという(最上郡史料叢書)。番所は古口の集落の下流側にあり、鉄砲・槍などが置かれていた。以後、船着場は廻米の改め所として重要視され、蔵宿が三軒あり、酒田船・最上船・御手船をそれぞれ分担して取り扱った。蔵敷料は一〇〇俵につき一俵のきまりであった。集落全体が最上川舟運と深い関わりをもち、船宿・船持・商人のほか、船頭・水主などが多かった。明治期に入り、初代県令三島通庸による磐根新道(現国道四七号)の開削、大正三年の国鉄酒田線(現陸羽西線)の開通によって衰退した。現在は最上川船下り(芭蕉ライン)の発着場として四季を通して観光面でにぎわいをみせ、本県の重要な観光地として再生しつつある。

 

陸羽西線

 JR奥羽本線新庄駅(新庄市)からJR羽越本線余目駅(東田川郡余目町)に至る四三q、駅数一〇、向町盆地と庄内平野を最上川沿いに結ぶ。新庄で陸羽東線と接続し、太平洋岸と日本海岸を結ぶ重要な横断線でもある。明治十四年に野蒜(宮城県官城郡松島町)〜酒田(酒田市)間の鉄道敷設計画があり、明治二十五年六月の鉄道敷設法の公布により奥羽線の建設とともに酒田までの鉄道建設が確定。大正二年十二月、新庄〜古口(最上郡戸沢村)間、翌年十二月古口〜酒日間が開通し、酒田線(新庄〜酒田間)と呼称。大正六年陸羽西線と名称変更。その後余目から南に鶴岡・羽前大山・三瀬(以上鶴岡市)・温海・鼠ケ関(以上西田川郡温海町)、酒田から北に遊佐・吹浦(以上飽海郡遊佐町)、象潟・羽後岩谷(以上秋田県)と建設を進めた。大正十三年国鉄羽越北線(現羽越本線)秋田(秋田県)〜羽後岩谷間の開通により羽越北線および陸羽西線羽後岩谷〜鼠ケ関間が羽越線となり、陸羽西線は新庄〜余目間となった(日本国有鉄道百年史)。最上川舟運の本合海(新庄市)、清水(最上郡大蔵村)の河岸は鉄道開通により急速に衰退した。沿線には最上川が出羽山地を浸食してできた最上峡の渓谷美が続き、古口〜草薙(戸沢村)間の一二qは、春秋の舟下りでにぎわっている。

 

本合海の起り

 新庄市本合海は江戸時代には「合海町本合海村」とよばれていた。室町時代の作といわれる『義経記』に記されている「やむけの大明神を伏し拝み奉りあい河の津につき給ふ。」の「あい河」も前後からみて、この本合海と考えられる。「あい河(海)」の名はおそらく新庄市の南部を流れる新田川がこの地点で最上川に合流することに起源するものであろう。「あい河」が「本合海」と改称するのは戦国時代末期のようである。即ち文明八年(一四七六)山形最上氏は庶族成沢氏を最上地方に遣わして勢力の拡大をはかった。

 成沢氏は大蔵村清水に城を構え、周囲の土豪層をおさえ、現在の最上郡の過半を手中にし、土地の名をとり清水氏を称した。清水氏は自己の城下集落である清水河岸の繁栄をはかり、本合海から人家を移し、船荷取扱いの特権を与えた(『増訂最上郡史』四一五頁)。これが現在の大蔵村合海である。これにより元来の合海は本合海を称するようになった。本合海の地が歴史に現われる最初は、さらに古く平安時代にさかのぼるようである。『三代実録』貞観十六年(八七四)の条に「五月十戊戌授(中略)出羽国矢向神従五位下。」とあるが、この矢向神は八向山の断崖中腹に鎮座する矢向神社と考えられる。

 また、前記『義経記』の「やむけの大明神」も右の矢向神を指すものと考えられ、この地は古くから最上川と後背地を結ぶ要衝であったことがうかがわれる。現在の矢向神社は日本武尊を祭神としているが、近世においては最上川を上下する船人を守る神として厚く信仰された。昭和八年、この村の架橋工事の折、三千数百枚の中国銭が発見されたが、すべて唐銭・宋銭で元銭のみであったという(堀場義馨「本合海出土古銭について」)。このことは当時すでに本合海にかなりの有力者が成長しつつあったことを物語るものであろう。また村内の字自性寺からは大壅様の須恵器破片が出土しており、少し離れた八幡原には須恵器の古窯址が存在すること、さらに最上地方の古社と考えられる七所明神の一つ(男根を祀る)が新田川河口近くに鎮座することなども、この地が古くから開けたことを証しているように思われる。

 

矢向明神と本合海河岸

本合海の八向楯趾と矢向神社

 八向山上には矢向楯とよばれる楯跡がある。楯主は合海志摩守なる武将であったが、戦国期に清水氏に滅ぼされたと伝えられる。清水氏の勢力伸長につれ、本合海の河岸集落としての機能は清水河岸に奪われたようで、近世の記録には本合海は清水の「枝河岸」とされている。しかし、城下町新庄との交通からいえば、本合海は断然優位に立つわけで、依然として河岸としての機能を有したことはいうまでもない。宝暦頃に編まれた「新庄領村鑑」に本村の庄屋斎藤与左衛門家は代々清水氏の蔵宿を勤めたとあるが、これは蔵米の上方市場への移出を目論んでのことであったと考えられる。

斎藤家は新庄藩戸沢氏時代においても、引続き新庄藩の蔵宿を勤めている。元禄二年(一六八九)、「おくのほそ道」を訪ねた松尾芭蕉が新庄を離れ、庄内に下った折の乗船の場所も本合海であった。「曽良随行日記」六月三日の条に「天気吉三日新庄ヲ立、一リ半元合海、次良兵ヘ方へ甚兵ヘより状添ル。」とある。

 慶長十九年(一六一四)、清水氏は宗家最上氏の急襲により滅亡、遣領は最上氏の蔵入地となり、同家家臣日野将監がこれを管理した。この後、元和八年(一六二二)最上家改易に伴い、戸沢氏がこの地方を領することとなり、本格的な藩政が展開された。この時代の本合海村は畑村を技郷とし、七七六石余の高を有し(反別七二町二反余)、九四五俵の年貢を納めていた。寛政六年(一七九四)の調査では人高四一六人、家数六十軒、馬五十疋とある。また、各村に賦課される糠・藁・萱・直路・柴・槌・薪は他の三分の二、御買綿半分が免除されているのは、当村が河岸集落の故であろうと思われる(ともに「新庄領村鑑」)。

 大蔵村地内から東流する最上川は、八向山に激突して、大きく向きを変え西に流れる。本合海は川に沿う村である故に絶えず水害に悩まされたようで、前記「新庄領村鑑」にも「水損之地」とある。村の東南部にある八向山積雲寺の地蔵尊は、いつの頃か最上川の川底から発見された由で、この場所をいまでも「地蔵巻」と呼んでいる。「地蔵巻」と「矢向巻」は八向山断崖の下の大渦で、この附近最大の難所であった。矢向神社に対する舟人の信仰の厚いのもこのような立地の故と思われる。この下流にかけて「狐巻」・「叺(かます〉巻」などの淵があるが、昔は両所ともに鮭のヤナがあり、晩秋の季節には叺で運ぶほどの鮭が獲れたという。

 

月光の峰(古口乗船場前側の山)    

その昔、湯殿山より出た月光という刀鍛冶が修業のために「こもった」所と言われ、今でも鍛冶屋屋敷の地名が残っております。

 

御番所跡(旧乗船場のところ)

ひだリの方をごらん下さい。松の古木があるところ、あそこが舟の関所、御番所跡でございます。元禄二年六月三日『おくのほそ道』で有名な俳聖芭蕉は、曽良を伴いどの川上八キロメートルの本合海という地点より舟で下り通行手形の検視にあい苦労した処で今では明治天皇行在所の碑、及び正岡子規の朝霧や船頭唄う最上川」の句碑が立っております。反対側の川向の地をお向い番所と呼び伏見稲荷神社の御霊お向稲荷大明神が鎮座しております。

 

柳  巻    

そこなしといわれる程深い所で、増水しますとより大きな渦が出来「鳴戸海峡を思わせる程で、川鮭の漁場でもあり、昔はこの辺でとれる川鮭が最高の味とされ、当時の殿様に献上したところ海内ずい一との言葉を頂いたそうです。

 

岩丸の瀬    

最上峡中難所の一つに数えられる浅瀬で、水量の少ない時には船底すれすれになる事もあり、船頭泣かせの場所でもあります。並行して走っております国道四十七号線の向うの丘は、石器時代の遺跡とされているところです。

小  滝    

明治二十四年八月に俳聖芭蕉の足跡を(右の方)辿った正岡子規の句に「朝霧や四十八金壷の滝八滝下り舟」とありますが、その最初の滝がこの小滝で小滝より数えて三番目の滝が金壷の滝でございます。

 

抱石の山     

この山を船頬達ほお天気見の山として重宝にしている山で、山の八合目頃に横雲が出ると、明日は必ず雨になると言われ、その日は舟旅をやらないといわれる山でございます。

 

神代杉      

山はだに点々とぼんさいのように生えている杉、学名を土湯杉別名山の内杉又は神代杉と呼ばれ、樹令は四百年より六百年といわれ天然に生える杉で、根本から切っても切株から五本も六本もひとりでに生え、中には一株から二十本も出ている古木も見られ、自然と闘って育っているせいか、ごらんのように葉も松のように見えております。古木なる故に材質が非常に良く、この杉で作った茶器、花器等は高価な作品として重宝がられております。

 

抱石の瀬     

さしかかって参りました所、最上峡中最大の難所とされております、抱石の願でございます。前方をごらん下さい。アッと言う間に過ぎ去って行きます。

 

くつわ滝     

右手をごらん下さい。文治三年非運の武将といわれた源義経が、兄頼朝に追れて奥州平泉に落ちのびる際、従者の弁慶が馬のくつわをすゝいだ所からこの名が付けられたと言われています。

 

三の滝      

この随に山頂より三段に落ちているところから三の滝と呼ばれております。

 

ひげ茶屋     

最上川船運華かなりし頃迄、船旅客相手の茶屋を営んでいた所で立派なひげを生やした親父が茶くみをしていたところから誰言うことなくひげ茶屋と呼ばれ現在は三代目の方が当社の名船頭をやっておられる。

 

兜の明神     

義経一行が奥州落ちの際に兜をここに奉納して、武運長久を祈りながら逆のぼったと言い伝えられてる兜の明神がございます。

 

国道四十七号(三島随道)  

現在の国道四十七号線は明冶十二年初代山形県令(現在の県知事に当る人)三島通庸の英断によって開拓されたもので、その徳を忍んで三島随道と名付けられたものです。

 

丈競べの滝    

左手をごらん下さい。二条の滝がいかに水がれの時でも細々流れておるところから、人呼んで丈競ベの滝といっております。

 

沓  喰     

昭和三十八年一枚の絵ハガキを僻地の児童に送ろうとの運動がNHKによってなされ、全国に紹介された代表的な僻地で沓喰部落でございます。戦国時代、民謡で有忠な真室川の城主佐々木越前守又の名を鮭延越前守が山形の城主最上義光に追われ、暫く身を潜めていた所と言われ、その後出来た部落で部落の開祖を祀った佐々木の明神は今も尚凛々しく祀られております。

 

慈光の滝     

この滝はお天気の良い日に五色の虹を見られる滝でございます。

 

駒形滝      

次の滝は駒形滝と申しまして、川ベりに出来た丸い跡は弁慶の乗った馬のひずめの跡といわれております。

 

弁慶のつぶて   

岩はだにめり込んだ丸い石があります。これは弁慶が力だめしに石を投げたのが地はだにめり込んだものと伝えられております。

 

七    滝   

山頂より七段に落ちる滝ゆえに七滝と名付けております。

 

大    滝   

最上峡中第二位の滝で大滝に藤かかりいて岩あやふしの読人知らずの句があります。

 

 

落葉の滝     

左手スノーセットの上の方をごらん下さい。或る旅人が最上峡四十八滝を念入りに数えて舟下リをしたのですが、どうしても四十七滝しか見えずこの地点にて一ぷくしましたところ、姿は見えないがチョロチョロと水の流れる音がするので、落葉をかき分けて見るとその下に滝がありました。そこで風流なる旅人早速一首

  最上川霧立ちこむる山合いの落葉の下にも滝ぞありける

と詠われました。

 

かっぱ淵の瀬   

さしかかって参りました所、舟頭泣かせのかっぱぶちと言う上り舟の難所でございます。

 

外川部落     

右手に見える小さな部落、外川と書いて外川(とがわ)部落で大外川、小外川と別れております。外川部落の後の山をごらん下さい。「前九年の役」の時に阿部貞任、宗任討伐のため八幡太郎義家がはじめて楯を築いた所で、山はだのところに今でも段々が残っているのが見られます。この外川部落の谷合い深く入りますと、阿部野と言う地名が未だにあり、その野一体に阿部一族がはびこっていた所と言われています。

たばね滝(左手現在国道の下より流れてる)      

散って来る柳の糸や束滝と言う句を詠われた柳風と言う人は滝の中頃がたばねたようになっているので詠われたものと思います。

 

石渡り別荘跡   

右の方現在田んぼと畑になっているところに、電球のソケットを発明し、一躍成金になった石渡幸之助と言う人の別荘のあった所で、反対側の山々が吾が庭として眺めていたものと思われます。この方が亡くなったナショナル会長松下幸之助氏の元祖であったかどうかははっきりしておりません。

 

尻    滝   

左手をごらん下さい。皆様になじみ深い滝で、子規の旅日記に「かくて川を下るほどに滝に尻滝ありて旅情、をなぐさめ」とある程に、この舟下りに唯一の笑いをもたらし殿方には一段と郷愁の念が強くなり、早く我家に帰りたいなぁ−と思わせる滝でございます。

 

 

仙人堂      

芭蕉の『おくのほそ道』に出て来る仙人堂でございます。源義経の従者で常陸坊海尊という人が「高館の戦」の後世をはかなみ、こゝに籠って仙人になったといわれ、つい最近迄この山中で仙人を見かける事があったといわれ、日本猿も棲息しております。

 

高屋の瀬     

左手小高いところにチラチラ見える所が高屋駅でございます。公害の知らない明治時代その侭の清潔なる駅でございます。その地点の急流を高屋の瀬といい鮎の釣場として釣人達を楽しませている有名な場所でございます。

 

よろいの明神   

右手をごらん下さい。義経が鎧を奉納した所といわれ、今なお古めかしい祠がまつられております。

 

土湯の部落    

舟運盛んなる時代に川舟の避難所の置かれた所、手当は二人扶持であったといわれています。

         ここでカメラの準備したい。

 

不抜の森     

又この森は不抜の森として何百年もの間一本の樹木も切られた事のないお山でございます。この山の八合目当りに岩山のほら穴奥の院があります。

 

鳥井岩      

右手川の中に大きな岩が二つあります。これは大鳥井の台石で大鳥井はたび重なる大洪水に姿をし、この台石だけが数百年の歴史を眺めながらこの地にちん座しております。

 

白糸の滝     

最上峡の象徴ともいわれる。この全長二百二十三米あり日本で第六番目にランクされている滝でございます。

 

白糸の滝(戸沢村)

最上川に落ちる「白糸の滝」

 最上峡の西端にある滝。高さ一二〇メートル。最上峡は、高さ三〇〇〜五〇〇の山地が最上川に迫り、急斜面を形成している。泥岩からなる最上峡には最上四十八滝と呼ばれる何本かの滝があり、この中でも最大のもの。落下する水は白糸のようであり、四季を通して絶えることがない。滝の下には不動堂がある。対岸は草薙温泉で、古口から一六キロメートル、約八〇分の舟下りの終点であり、国道四十七号に沿いドライブインなど休息施設がある。白糸の滝を詠んだ歌は多く、『夫木抄』に源重之の和歌として「もかみ川滝のしら糸くる人のこころによらぬはあらじとぞおもふ」がある。また『義経記』には、源義経の北の方が「是をば何の滝といふぞ」と尋ねたのに対し、白糸の滝と答えたところ、即座に北の方は「最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らで通る白糸の滝」「最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝」の二首を詠んだ旨が記されている(古典大系)。また松尾芭蕉の『おくのほそ道』には「白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危し」と見える(角川文庫)。同名の滝は、烏海山の南側にある日向川上流や最上川支流の相沢川上流にもある。

 

草薙温泉     

明治十二年今の国道四十七号線開削の折発見された所で、皆様舟下リの終着地点でございます。

 

柏谷沢      

前方右手の方に見えます部落が柏谷沢部蕗といい、昔は新庄藩の最前線で、庄内藩への見張りのあった部落でございます。

 

境の滝      

二条の滝が流れていて、西が庄内、東が新庄藩、今は最上郡と東田川郡との境にある滝でございます。