最 上 川 と 芭 蕉

尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一 

 

最上川に落ちる白糸の滝

最上川は、山形・福島両県境の西吾妻山に源を発し、米沢盆地・山形盆地を北上し、新庄盆地に入り流路を北西に変え、庄内平野を貫流して酒田市で日本海に入ります。その流路延長は二二九キロメートル、流域面積七、〇四〇平方キロメートルにおよぶ大河です。

最上川流域は、県都山形市をはじめ一二市二一町三村からなり、人口は約一〇八万人で、山形県人口の約八〇パーセントを占めています。最上川のような大きな川で一つの県が一本の河川流域にふくまれる例は全国でも珍しく、一県一河川の典型とされています。

最上川は、『古今和歌集』時代から歌枕として有名です。「もがみ河のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」。これ以降、最上川は、稲舟とともに東北地方を代表する歌枕となって後世の歌人たちに歌い継がれ、数多くの歌集に登場し、歌の数も七六首にのぼります。

室町時代初期に書かれた『義経記』に、源義経主従が文治三年(一一八七)二月、平泉に落ちのびる途中、清川(立川町)から合海(新庄市本合海)まで最上川を川船で遡のぼる様子を記しています。

松尾芭蕉は、元禄二年(一六八九)の「おくのほそ道」紀行で、最上川下り(六月三日、陽暦七月十九日)を次のように記しています。最上川は陸奥より出でて、山形を水上と す。碁点・隼などいふおそろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船というならし。白糸の瀧は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨て立つ。水みなぎって舟危し。

   五月雨をあつめて早し最上川

芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句は、大石田町の高野一栄亭での歌仙「さみだれをあつめてすずしもがみ川」の句形であり、五月雨で増水している最上川の急流を実際に川船で下って「危い」体験をして改作したのです。

大石田での「さみだれをあつめてすずしもがみ川」は、歌仙の発句(=あいさつ)であり、涼しい風をはこんてくる最上川の豊かさ、やさしさを仮名書きで表記したのです。

新庄市本合海から急流の最上川下りを体験して、仮名書きを漢字に、「すずし」を「早し」に改め、最上川の豪壮さ、はげしさを表記したのです。五月雨の最上川のイメージを仮名書きと漢字書きの二つの句形にした芭蕉のこまやかな心づかいには感心します。

芭蕉の『おくのほそ道』には、芭蕉五〇句、曾良一一句、低耳一句の六二句が載っています。そのうち川を詠んだ句は最上川の句だけであり、しかも二句も載っています。最上川以外の川もたしかに本文に登場しています。阿武隈川・名取川・野田の王川・北上川・衣川・黒部川などは本文に紹介されていますが、作句にまで至っていません。「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が出会った川は数知れずあります。主なる川をあげると、利根川・鬼怒川・大谷川・那珂川・白石川・阿賀野川・信濃川・犀川・九頭竜川などです。 

芭蕉は、「おくのほそ道」の旅の前年に書いた『笈の小文』で、旅日記のあるべき姿に言及しています。そのなかで、「かしこに何と云川流れたりなどいふ事、だれかれもいふべく覚侍れども黄奇蘇新のたぐひにあらざれば云事なかれ。」と述べているのです。

この方針にしたがって、『おくのほそ道』では多くの川が無視されてしまったのでしょう。歌枕になっているか、いないかが、芭蕉の川の価値基準であったようです。

「五月雨をあつめてはやし最上川」の句碑

『おくのほそ道』の本文に載ったのは、前にあげた「五月雨をあつめて早し最上川」と、最上川河口酒田での「暑き日を海に入れたり最上川」です。ほかに、五月二十八日〜三十日(陽暦七月十四日〜十六日)大石田での歌仙で「さみだれをあつめてすずしもがみ川、六月一日〜三日(陽暦七月十七日〜十九日)新庄での三物(みつもの)で「風の香も南に近し最上川」を詠んでいます。

『おくのほそ道』では、芭蕉と曾良が新庄に立ち寄ったことが全く省略されています。大石田から最上川を舟で下ったように「最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ。」と書いたのは、最上川中心に紀行文をまとめるための文学的フェクションです。大石田で「わりなき一巻(=歌仙「さみだれを」)を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。」を強調したい気持からであろう。歌仙「さみだれを」は、紀行中唯一の芭蕉真績歌仙です。

芭蕉の最上川の句のおかげで、最上川は文学史上東北一の大河となりました。芭蕉に最上川下りの文を書かせ四句も詠ませるぐらいに、最上川はやはりなによりも大河であったのです。             

『古今和歌集』・『義経記』・『おくのほそ道』の時代から時ははるかに移っても、流れ続ける最上川は、文学や絵画・写真のモチーフとして変わらぬ素材を与えてくれます。