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最上川と文学

尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

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1 古代―歌枕としての最上川

大石田の船番所跡を流れる最上川

最上川が文学の世界に登場するのは、わが国最初の勅選和歌集である

『古今和歌集』(20巻・1100首)の時代、延喜5年(905)、今から1094年前のことです。

      もがみ河  のぼればくだる  いな舟の  いなにはあらず  この月ばかり       

(巻20・1092)

この和歌は、東歌の中に収められた詠み人知らずの陸奥歌(みちのくうた)です。恋をうちあけられましたが、「のぼればくだる」(心が通う)、愛を受けいれます。最上川を上ったり、下ったりしている稲船のその「いな(否)」ではありませんが、この月ばかりは都合が悪くてお逢いできません、という意味の恋の歌です。

この和歌から最上川には稲船(いなふね  国の役所に納める租を積んだ船)が上り下りしていたことがわかります。「延喜式」(905年)によると、最上川に全国唯一の「水駅(すいえき)」野後(のじり駅馬10疋、伝馬3疋・船5隻、大石田町大字駒籠)・避翼(さるはね  駅馬12疋、伝馬1疋・船6隻、舟形町大字富田)、佐芸(さけ  駅馬4疋船10隻、鮭川村大字佐渡字真木)などが置かれ、「母なる河」最上川は古代においても他にかえがえたい貴重な連絡路であったのです。

そのため、最上川は稲船とともに東北地方を代表する歌枕(うたまくら)となって、後世の歌人たちに歌い継がれていくようになります。

 

     もがみがは  人をくだせば  いなふねの かへりてしづむ  ものとこそきけ

( 寂然法師  続後撰 巻10)

     もかみ河  いな舟のみは  かよはずで おりのぼり猶  さわぐあしがも      

( 源  順  夫木 巻17)

     もがみ河  おちくる滝の  しらいとは 山のまゆより  くるにぞありける  

( 源  重之  夫木 巻26)

     つよくひく  つなでと見せよ  もがみ河そのいな舟の  いかりおろさで      

(西  行  夫木 巻24)

     もがみ河  はやくぞまさる  あまぐもの のぼればくだる  五月雨の比         

(吉田兼好  五月雨)

最上川は、『古合和歌集』『後撰和歌集』『千載和歌集』『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『新後撰和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『新葉和歌集』『古今和歌六帖』『万代和歌集』『夫木和歌集』など数多くの歌集に登場しており、歌の数も76首にのぼっています。

歌枕は、特定の連想(イメージ)をうながす言葉としての地名であり、現地を知らずに用いられる場合が多かったようです。

 

2 中世―『義経記』にみる最上川

本合海を流れる最上川

中世における最上川舟運の実態を示す史料はほとんどありません。室町時代初期、660年前に書かれた『義経記』(東北の物語がはじめて都で出版)の中に、源義経主従が平泉に落ちのびる途中、清川(立川町)から合海(新庄市本合海)まで最上川を川船で溯る様子を記しています。

この清川と申は、羽黒権現の御手洗なり。(中略)やがて御船に乗り給ひて、(中略)水上は雪白水増りて、御船をかねてぞありける。(中略)稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、(中略)かくて御船を上する程に、禅定より落ちたぎる瀧あり。北の方、「是をば何の瀧といふぞ」と問ひ給へば、白絲の瀧と申ければ、北の方がくぞ続け給ふ。

最上川  瀬々の岩波  堰止めよ  寄らでぞ通る  白絲の瀧

  最上川  岸越す波に  月冴えて  夜面白き  白絲の瀧

とすさみつつ、鎧の明神、冑の明神伏拝み参らせて、たかやりの瀬と申難所を上らせ、(中略)みるたから、たけ比べの杉などというところを見給ひて、矢向の大明神を伏拝み奉り、会津(海)の律に着き給ふ。(以下略)

源義経主従が北国落ちをしたのは文治3年(1187)、今から812年前の2月のことです。『義経記』の記事によって、清川・合海間の最上川で旅人や物資輸送のために川船が使われていたこと、古代以来の歌枕の伝統を受け継いでいることがわかります。

 

3 近世―最上川と芭蕉

元禄2年(1689)、今から310年前、松尾芭蕉は「おくのほそ道」紀行で、最上川下り(6月3日、陽暦7月19日)を次のように記しています。

最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふおそろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船というならし。白糸の瀧は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨て立つ。水みなぎって舟危し。

    五月雨を  あつめて早し  最上川

『おくのほそ道』最上川下りの記事は、わずか130字の短文です。

この中に「最上川」「陸奥」「山形」「碁点・隼」「板敷山」「酒田「稲船」「白糸の瀧」「仙人堂」をとりあげています。

「碁点・隼などいふおそろしき難所」は、大淀挟窄部(村山市)の三難所(碁点・三ケ瀬・隼)であり、芭蕉らは実際には通っていません。「水みなぎって舟危し」という急流、日本三急流(富士川・球磨川・最上川)の一つである最上川の様相を強調したかったからでしょう。「板敷山」は、最上川下流の左岸、新庄藩と庄内藩の境にそびえる海抜630mの山です。『夫木集』に「みちのくに  近き出羽の  板敷の山に年ふる  われぞわびしき。よみ人しらず」とあり、歌枕です。「酒田」は、最上川が日本海に注ぐ河口港です。          

「仙人堂」は、外川神社ともいい、源義経の家来常陸坊海尊が主君の道中安全を祈念するために、この堂に籠って仙人になったといわれます。

「白糸の滝」は、最上峡の象徴で全長223メートル。「夫木集」に源重之の「最上川滝の白糸くる人のここに寄らぬはあらじとぞ思ふ」「最上川落ちくる滝の白糸は山の眉よりくるにぞありける」とあり、歌枕です。前に紹介した『義経記』に北の方が詠んだ二首が載っています。

芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句は、大石田の高野一栄亭での歌仙(かせん)「さみだれをあつめてすずしもがみ川」の句形であり、五月雨で増水している最上川の急流を実際に川船で下って「危い」体験をして改作したのです。大石田での「さみだれを  あつめてすずし  もかみ川」は、歌仙の発句(あいさつ)であり、涼しい風をはこんてくる最上川の豊かさ、やさしさを仮名書きで表記したのです。

新庄市本合海から急流の最上川下りを体験して、仮名書きを漢字に、「すずし」を「早し」に改め、最上川の豪壮さ、はげしさを表記したのです。五月雨の最上川のイメージを仮名書きと漢字書きの二つの句形にした芭蕉のこまやかな心づかいには感心します。ちなみに、「五月雨」「五月」「早乙女」の「サ」は、田の神・水の神のことです。五月とは、田植え時に、田の神・水の神がくる月です。

田植えが終ると「サノボリ」、田の神・水の神が山にのぼり、山の神になるのです。「サノボリ」が訛(なま)って「サナブリ」になったのです。

芭蕉の『おくのほそ道』には、芭蕉50句、曾良11句、低耳1句の62句が載っています。そのうち川を詠んだ句は最上川の句だけであり、しかも2句も載っています。最上川以外の川もたしかに本文に登場しています。阿武隈川・名取川・野田の王川・北上川・衣川・黒部川などは本文に紹介されていますが、作句にまで至っていません。「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が出会った川は数知れずあります。主なる川をあげると、利根川・鬼怒川・大谷川・那珂川・白石川・阿賀野川・信濃川・犀川・九頭竜川などです。

芭蕉は、「おくのほそ道」の旅の前年に書いた「笈の小文」で、旅日記のあるべき姿に言及しています。そのなかで、「かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚侍れども黄奇蘇新のたぐひにあらざれば云事なかれ。」と述べているのです。この方針にしたがって、『おくのほそ道』では多くの川が無視されてしまったのでしよう。歌枕になっているか、いないかが、芭蕉の川の価値基準であったようです。

そもそも芭蕉の紀行文では、川を詠んだ句が少ないのも事実です。日本の川名は5字で成り立つ川が多いので、五七五の中に詠みやすいはずなのに詠んていないのです。「野ざらし紀行」では、47句中、川を詠んだのは、同行の門人千里の「秋の日の  雨江戸に指折ん  大井川」の1句のみです。「鹿島詣」、「笈の小文」、「更科紀行」には1句もありません。こうした点からみても、最上川2句というのは破格の扱いです。

『おくのほそ道』の本文に載ったのは、前にあげた「五月雨を  あつめて早し  最上川」と、最上川河口酒田での「暑き日を  海に入れたり最上川」です。なお、山形は日本最高気温40・8度(66年前の昭和8年7月25日)を記録しています。

ほかに、5月28日〜30日(陽暦7月14日〜16日)、大石田での歌仙で「さみだれを  あつめてすずし  もがみ川」、6月1日〜3日(陽暦7月17日〜19日)新庄での三物(みつもの)で「風の香も─南に近し─最上川」を詠んでいます。河合曾良の「俳諧書留」に「盛信亭」と前書した芭蕉の発句であり、脇句が柳風(渋谷九郎兵衛盛信の息子、塘夕ともいう、通称渋谷仁兵衛)の「小家の軒を  洗ふ夕立」、第三が木端(小村善右衛門)の「物もなく  麓は露に  埋て」であり、芭蕉が6月2日盛信亭に招待された時の作品でしょう。

平成元年9月10日、新庄市は芭蕉「おくのほそ道」300年記念と新庄市民プラザ開館記念に、芭蕉句碑「風の香も南に近し最上川」(高さ170p・幅115p・厚さ35p、休場石、渋谷道氏書)を盛信亭(新庄市本町山形銀行新庄支店)に近い新庄市民プラザ前に建立しました。

また、この日に、七吟歌仙一巻興行、風流の発句「御尋に  我が宿せばし  破れ蚊や」、芭蕉の脇句「はじめてかほる  風の薫物」ではじめています。ほかに「風流亭」と前書した三つ物、芭蕉の発句「水の奥氷室尋る柳かな」、風流の脇句「ひるがほかかる  橋のふせ芝」、第三が曾良の「風渡る  的の変矢に  鳩鳴て」を付合いしています。

新庄市金沢新町に「柳の清水」が復元・整備され、大正10年から金沢八幡神社にあった芭蕉句碑「水のおく  氷室尋る  柳かな/芭蕉翁/羽新庄雪映舎中修造、裏面に  涼しさや  行先々へ  最上川/蓼太/天明元年歳次辛丑十月十二日  東都宗平建  沙羅書」もその側に移しました。

なお、『おくのほそ道』では、芭蕉と曾良が新庄に立ち寄ったことが全く省略されています。大石田から最上川を舟で下ったように「最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ。」と書いたのは、最上川中心に紀行文をまとめるための文学的フェクションです。大石田で「わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。」を強調したい気持からであろう。歌仙「さみだれを」は、紀行中唯一の蕉真績歌仙てす。

以上、芭蕉の最上川の句のおかげで、最上川は文学史上東北一の大河となりましたが、芭蕉に最上川下りの文を書かせ4句も詠ませるぐらいに、最上川はやはりなによりも大河であったのです。

 

『古今和歌集』・『義経記』・『おくのほそ道』の時代から、時ははるかに移っても、流れ続ける最上川は、文学や芸術(絵画・写真)のモチーフとして変わらぬ素材を与えてくれます。