『おくのほそ道』尾花沢と歌仙

 

            尾花沢市歴史文化専門員梅 津 保 一

 

歌仙風景

 「おくのほそ道」の旅の出発直前、元禄二年三月二十三日に岐阜本町の商人安川助左衛門(俳号落梧)あての手紙に、「みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみ候」とあります。「風雅」の伝統を探ると同時に、都市の華美に染まらぬ未知の俳人とめぐりあい、それらの人びとと歌仙を巻くことができたら、という大きな目標があったのです。

 日本の生んだ「座の文芸」‐連句‐は、長句(五七五)と短句(七七)を付け合い、さらに短句(七七)と長句(五七五)を付合い、限りない想像力の広がりを楽しめます。事実、芭蕉の「涼しさを」の句は、一句で終らず三十六句の歌仙として残されました。芭蕉の名吟の多くは連句の発句だったのです。

 俳句は、単独に生まれた文芸様式と一般に考えられています。が、実は俳句は連句の発句を、明治中期以降に独立させたものなのです。その結果、俳句は共同体の座の文学から個の文学になってしまいました。一方、連句は、その反省としてからか、グループで詩作をわかち合える楽しい形式として、今や多方面で見直されつつあります。

 連句の魅力は、季語と無季の句の配合の妙によって、知識と想像力が引出され、年齢を超えて恋・無常をはじめ、人間の喜怒哀楽を自由自在に詠み込める点にあります。できあがった作品は、宇宙曼陀羅となり、まさに自然と人生の交響詩≠ニいえましょう。

 芭蕉が心血をそそいで、芸術に高めた連句を現代人の手に取戻すことは、ますます画一化し孤立化する人間社会にあって、ある時間を複数の人間で共有し、個性を発揮しながらも、お互いの心を交わらせ、見失いつつある自然と人事の交流を再認識する場(座)の復権につながりましょう。

 「おくのほそ道」の旅の中で、芭蕉と曾良は土地の人びとと歌仙を一三巻、そのうち七巻を山形県内で巻いています。すなわち、尾花沢で「すゞしさを」と「おきふしの」二巻、大石田で「さみだれを」、新庄で「御尋に」、羽黒山で「有難や」、鶴岡で「めづらしや」、酒田で「温海山や」の七巻です。

 尾花沢の人びとと自然とが、俳聖芭蕉をどうもてなし、芭蕉がそれにどう応えたのか、彼に随行した曾良の『曾良随行日記』(角川文庫『おくのほそ道』所収)を手がかりに追跡してみよう。

  芭蕉と曾良が須賀川を立ってから、尾花沢に着くまでは、さしたる知り合いもなく、俳諧の興行もありませんでした。尾花沢には、旧知の鈴木清風がおり、清風をとりまく地元の俳人たちの歓待をうけて、二巻の歌仙をまいています。鈴木清風は、芭蕉と既知の間がらであり、清風が貞享二年、江戸にきたとき、芭蕉とその門人、其角、嵐雪らは、清風をむかえて、小石川で百韻の会をしている。発句は清風で、脇は芭蕉がつけた。

 涼しさの凝くだくるか水車  清風

 青鷺草を見越す朝月     芭蕉

 松風のはかた箱崎露けくて  嵐雪

に始まる。

 この中に付合「晩稲苅干みちのくの月よ日よ才丸/浄瑠璃聞んやど借らん秋コ斎」があり、また、「軽く味ふ出羽の鰰才丸」の句もあり、挙句は、「さくらさくらの奥深き園執毫」である。

 尾花沢での歌仙「すゞしさを」の巻と「おきふしの」の巻二巻は、須賀川の等躬の後裔である相楽家に伝来したものを、同地の石井雨考が見つけ、幽嘯がそれを写しとって『繋橋』(文政二年刊か)に収めて出版しました。

 尾花沢での歌仙で目立つことは、芭蕉と曾良の地元の風物伝説などに寄せる関心の深さです。地元の俳人も含めて自己の生活体験や知識がふんだんに取入れられているのです。

 この歌仙二巻は、曾良の「俳諧書留」等に見えず、後世に知られたため、これを存疑とする説もあります。しかし、歌仙「すゞしさを」の芭蕉の発句「すゞしさを我やどにしてねまる也」は、『おくのほそ道』に見えるし、内容にも疑わしいところがなく、新庄の風流が俳席に加わっていることでも、尾花沢での歌仙と信じてよいと思います。風流は、『曾良随行日記』の五月二十四日の条に、「新庄渋谷甚兵へ風流」とその名が見え、二句だけで退席しています。同じく五月二十五日の条に、「(前略)連衆故障有テ俳ナシ」とあり、清風宅で俳諧の興行があったことを暗に示しています。鈴木清風は、これより先、貞享二年(一六八五)六月と翌三年三月の二度、江戸で芭蕉らと百韻と歌仙を巻いています。

 

  歌仙「すゞしさを」の巻  (『繋橋』所収)

 

 すゞしさを我(わが)やどにしてねまる也        芭 蕉

  〔夏〕涼しさ。芭蕉は十日間も、尾花沢に滞在した。到着した十七日は清風の家に泊ったが、翌日からは、養泉寺に宿をとった。発句です。季語は「涼しさ」で、もちろん夏になります。ただし、ここは発句ですから、前後の関係はいっさい考えなくていい。「切」をもつことと当季の季語を含むこと、そして五・七・五の十七音におさめること、その基本的なワクを考えておけばいいわけです。そして当座の最初のあいさつの気持をこめて、こういう句を芭蕉が詠んだわけです。発句は、当座のお正客として、亭主に対してあいさつする、あるいは一座の皆さんに対してあいさつする。そういう気持を含ませるのです。

 芭蕉と曾良はよそ者で、あとは尾花沢の連衆ですから、尾花沢の人々に対してそういうあいさつをまず申し述べたものです。それが発句です。それに対して脇句が、出されます。

 つねのかやりに草の葉を燒(たく)           清 風

  〔夏〕‐蚊遣。たいしたもてなしもできず、いつものように蚊遣草をたくばかりです、との主人の挨拶である。季は発句を受けまして「蚊遣」が夏の季語になります。「夏」は一句で捨ててもかまわないのですが、脇句というのは発句のあいさつに逆らわないで、あいさつを返して発句をもてなすものですから、ふつう季節を合わせます。それで夏が二句目になるわけです。

亭主役としての清風が、お客に対してあいさつを返しているのです。そして三句目に移ります。

 鹿子立(かのこたつ)をのへのし(清)水田にかけて   曾 良

  〔夏〕‐鹿子。「をのへのし水」は、「尾上の清水」である。生まれてまもない鹿の子が立っている岡の辺から田にかけて清水がながれている、と蚊遣をたく農家のあたりの景を詠んだ。『類船集』によれば、夏草に鹿の子は付合。

 ゆふづきまるし二の丸の跡               素 英

村川素英の生前墓(尾花沢市上町)

  〔秋〕‐月。鹿に月は付合(以下、「鹿→月」のように書く)。前句の鹿の子が立つ岡に、城があったとした。「二の丸」とは、本丸のまわりの城郭である。二の丸はたいていどこでも「四角い」、そこに「まるい」夕月が照っている。まして城の跡といえば、懐古の情がわいてきて、月の光はいっそうおもむきがある。

養泉寺の北、おもたか沢をはさんだ台地は尾花沢楯跡(のち幕府の最北端の尾花沢代官所陣屋がおかれた)であり、栄枯盛衰の跡に感概が深い。それだけに、尾花沢の俳人、素英のこの付句には歴史的懐古の情がこめられている。二の丸の「跡」の一字に無限の思いがある。「二の丸の跡」は、国史跡の延沢城跡でもよい。

 楢紅葉(ならもみじ)人かげみえぬ笙(しやう)のおと  風 流

  〔秋〕‐紅葉。「笛→昔をおもふ」。清風は、前句の歴史的懐古の余情をくんで、だれとても訪う「人かげ」のない古城に、昔をしのばせる笙の笛の音を出した。謡曲『実盛』に、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上」という詞章があり、笙歌とは、天人の奏する音楽のことだという。おりから は紅葉して笙の笛にさそわれるかのようにはらはらと落ちかかる。

 鵙(もず)のつれくるいろいろいろの鳥         風 流

  〔秋〕‐鵙。「紅葉→鵙の声」「笛→色鳥」。「いろいろの鳥」は、俳詣の季語の「色鳥」である。秋渡ってくるいろいろの鳥をいうが鳴声よりも色彩の美しさの感じをこめている。鵙の一声に「あゝ本当に秋が来たな」と思う心が「鵙のつれくるいろいろいろの鳥」といわせたのであろう。この作者、風流は新庄の人で渋谷甚兵衛といい、あと一句(九句目)だけで退席している。

 ふり(古)にける石にむすびしみしめ繩           英

〔雑〕ここから初折の裏に入る。「みしめ縄」は、「御注連縄」である。「古りにける石」は尾花沢宿場町の市神様であり、聖なる神であり、性の神である。男根に似た石神に注連縄がむすぱれており、そこに「いろいろいろの鳥」があつまってくるのである。この句には「季」をあらわす語がありません。それで「雑(ぞう)」の句です。

 山はこがれて石(草)に血をぬる              蕉

  〔雑〕「こがれて」は、焼けこげて、である。石神が火の神でもあることを知っていれば、「ふりにける石」から「山はこがれて」ヘの移りは、すぐわかるはずである。前句の「しめ縄」をむすんだ石は、道祖神、塞の神などとよばれる石神である。石神はまた火の神であった。正月十五日の小正月での左義長、ドンド焼(尾花沢ではバサランダという)などは、道祖神の前でおこなわれる。この日、門松・竹・注連縄・書初めなどを持ちよって焼くのである。「草に血をぬる」というのは、そのさい火の神にささげられた 生け贄の血である。柳田国男は、『一目小僧』で、左の目を射ぬかれて片目になった鎌倉権五郎景政のことにふれている。

尾花沢の諏訪神社に祭神八幡太郎義家がササゲ畑にかくれていて目を射ぬかれて片目になったという話が伝えられ、ササゲ豆をタブーにしている。

出羽国には、鎌倉権五郎目洗いの故跡と称する清水があります。柳田は、それは「実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風 習があった。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候 補者の片目を潰し足を一本折っておいた」のだという。もちろん人ではなく、鳥獣を若宮に牲する風習は、どこにでもある。

 芭蕉は前句の「ふりにける石」から、全国どこにでも伝わるこのような「大昔いつの代にか」の神のために人を殺す風習を「草に血をぬる」と付けたのである。

『日本書紀』によれば、「この時に斬る血、そそいで石礫樹草 (いわむらさきぐさ)に染まりき。此れ草木沙石(いさご)の自ら火を含む縁なり」とある。この文をそのまま俳諧にすれば、「山はこがれて草に血をぬる」となる。だが、芭蕉は前句の古い石神に、その前でおこなわれていた古い日本の民俗をすなおに付けたのであろう。

 わづかなる世をや継母(けいぼ)に偽られ          流

  〔雜〕前句の神に捧げられる生け贄は少年が多かった。村祭で犠牲になった少年にたいして、これは「わづかなる世」を継母によって売られた少女である。継母にいじめられる少女の話、いわゆるシンデレラの話は日本にも多い。『類船集』には、「中将姫の雲雀山に捨てられ給ひしも継母のゆへとかや」とある。中将姫とは、伝説上の人物で、藤原豊成の娘、継母のため大和の雲雀山に捨てられ、無常を観じて当麻寺にこもったという。その中将姫の伝説が出羽にも伝えられている。須藤克三他の『出羽の伝説』(角川書店)によれば、中将姫は中将藤原実方の娘となっている。実方は一条天皇の勅命で、「みちのくの歌枕たずねて参れ」といわれ、出羽の阿古耶の松をたずねたが、笠島で落馬し、一命をおとした。都で父の悲報を聞いた中将姫は、みちのくに下り、出羽の平清水に住んで、父をとむらったという。

10 秋田酒田の波まくらうき                 良

  〔雜〕「継子→浮動(ウキツトメ)」。継母に偽られて売られた遊女が、秋田・酒田と舟にのせられてただようのである。秋田・酒田と日本海を南に航海しているが、そのもとの北は、津軽である。この尾花沢で巻いた次の歌仙「おきふしの」で、芭蕉は「舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた」の付句をしている。まだ見ぬ日本海へよせる関心は深い。その津軽の十三湖にも遊女がおり、また上方に売られて行く娘も多かった。『みちのくのあけぼの』には、「十三湊舟遊記」なる史料が収められ、「十三の港は美女多き故に大津波の災害のあとには多く上方に貸(売)れゆくありて是に忿怒せる親の入水死相つぎて・・」とある。秋田・酒田と売られて行く遊女は、あるいは津軽の女であろうか。

11 うま(馬)とむる関の小家(こいへ)もあはれ也      蕉                 

  〔雑〕前句を出羽の舟路と見、ここも、旅体の句として、尿前の関付近のわびしい作者の体験を付けたもの。『おくのほそ道』の尿前の関の条は、次の如くである。「なるご(鳴子)の湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す」として、「蚤虱馬の尿する枕もと」の句を書いている。奥羽では、人と馬とが一つ家に住んでいる家が多い。

12 桑くふむし(虫)の雷に恐(お)づ            風

  〔夏〕‐雷。「桑くふむし」は、蚕である。石田英一郎の『桃太郎の母』には、「桑原考」という興味ぶかい論考が収められている。それによれば、中国では養蚕のいとなみは女性のしごとであり、蚕を飼う女性が、桑の木の下で神とまぐわいをする説話が多い。『捜神記』などによれば、男神は馬の姿をとって、蚕を飼う神妻を訪れる。そこで、馬頭娘、馬鳴菩薩などが蚕の神として祭られ、「蚕ハ 馬ト神 ヲ同ジュウス。本竜精ニシテ首馬ニ類ス。故ニ蚕駒ト曰ウ」とされる。

「ところが面白いことには、中国の俗信や説話は、そっくりそのままわが国各地の民間にひろく分布している」のである。すなわち、「養蚕の守護神としての馬鳴菩薩や馬頭娘の信仰が普及しているが、その神像は女性と馬と桑ないし蚕とのさまざまの形式あるいは段階における結合を示しており、その洗練されたものは、衣襲(きぬかさ)明神などといって、桑の枝と蚕卵紙を手にした嬋娟(せんけん)たる美女の、馬に跨るか、腹部に馬の模様を描いた美しい衣を着けた姿にまで発展している。そしてまた上州から越後、裏日本の方面にかけては、養蚕祖神と題されるこの種の馬上和装の姫神の像が、オシラ様(オシャガミ様)とよばれ、なかには養蚕に取りかかる前の祭をオシラ待ちといって、この図像をかかげて祭る地方もある。

 しかるにこのオシラ様なる神は、東北に行くと、多く桑の木の馬頭と娘の首との一対の木偶となって神御衣(かむみぞ)を着せられ、ただに養蚕神としてばかりでなく、イタコあるいはオナカマ、ワカという口寄巫女の持ち歩く神体として、その託宣のあらたかさを畏怖せられる一方、オシラ様の由来の説明には、中国の古書とほぼその本筋を同じくする馬娘通婚談が用いられているのである。しかも面白さはこれにとどまらず、『捜神記』の蚕駒由来談のモティーフをそのまま取り入れた長編の語りごとが、イタコがオシラ神の木主を手にもって歌いかつ舞ういわゆるオシラ遊び(オシャガミ様アソバセ)の経文として、今なお盲目の彼女ら自身の社会に、ひそかに耳承口伝せられてきていることが、ネフスキーその他数氏の努力によって、青森、岩手などの僻村から数多く発見採録されたのであった。

  中国の物語では、桑の木の林は、青春の血に燃える男女の群が野外に会して性のちぎりを交す歌垣に似た祭礼の地であり、このすばらしいちぎりが、五彩の蛇となって天に現われるとき、人びとは陰陽和合して宇宙にみのりの与えられたことを知った。日本でも、イタコたちの「長編の語りごと」は、性関係の誇張を要素としている。また、繭玉に陰陽をまねた形を取りつけたり、一種の呪的な性行為を蚕室でおこなう習俗がわが国にあるのも、養蚕に多産豊饒を祈る儀式と関連しているのである。

 この桑の林は、桑の木が神聖な樹であるから、雷もおそれて落ちないことになっている。昔、雷が桑の木に落ちたが、雷は桑の股にはさまれて死んだことがある。それ以来、雷は桑の木を恐れるようになった。雷が鳴るとき、「桑原々々」と唱えるのは、桑の林には雷が落ちないからである。琉球や、出羽・陸奥の地方では、雷よけに、桑の葉を頭にかざしたり、家の入口などにさしたりする。

  ところで、清風の「桑くふむしの雷に恐づ」という付句は、雷が落ちないはずの桑畑に雷がおちて、蚕がかえって雷を恐れたという、「俳諧」の面白さを詠んだものである。雷は桑原には落ちぬという言い伝えがあり、落雷よけの呪文に「桑原々々」と唱えるのである。

  それならば、この句の場は「小家」の中の蚕室ではなく、野外の桑の林である。したがって、前句とのかかりは、「馬」と「蚕」とにある。

  清風は、雷が蚕に「恐づ」はずなのに、それを逆に、蚕が「雷に恐づ」と、「俳諧」にしているのである。

  芭蕉が『おくのほそ道』の尾花沢の条で、「蚕飼する人は古代のすがた哉」という曽良の句の原型は、「蚕する姿に残る古代哉」であった。清風のこの付句も、古代の物語を俳詣にして興じているのである。清風はイタコがオシラ神の神木をもって「歌う語りごと」をよく知っていたようである。

  次の「おきふしの」の歌仙21句目で、「はての日は梓にかたるあはれさよ」の付句を詠んでいる。「梓」は、梓巫女で梓弓の弦を鳴らし、その呪術によって死霊をよびよせ、その声を死者の家人に告げるのである。

芭蕉にも、元禄元年の「雁がねも」の歌仙に、「ものおもひ居る神子の物云」の付句がある。

13 なつ痩に美人の形おとろひて               良

  〔夏〕‐恋。清風の「桑くふむし」の句には「蚕駒由来談」から、その中に美人の姿をふくんでいるから、曽良はこの付句で「美人」を出した。曽良はもと武士で、岩波氏、信州の養蚕地帯の出身だから蚕と美人の話はとうぜん知っていたであろう。これは日本の民俗である。蚕はおしらさま・おひめさん・ひめこなどの呼び名があるからである。

14 霊(たま)まつる日は誓(ちかひ)はづかし        英

  〔秋〕‐霊祭・恋。「霊まつる日」は、盆の精霊会である。前句を恋痩せと見、亡夫の霊に際し、「両夫にまみえず」との誓もいつしか破られている今の後家の身を恥ずる意。

15 入(いる)月や申酉(さるとり)のかたおくもなく     風

  〔秋〕‐月。「みちのく」の「おく」が出てきた。「申酉」は西南の方向である。陰暦七月十五日の霊祭りの頃は、月も十五夜で美しい。その月が西南−西は霊が住んでいる浄土があるところである−の方向にはてしなく没していく。前句に対しての景気つけであるが、尾花沢盆地における実感をそのままによんだのでもあろう。

  西方浄土にいる前夫の霊は、現世の煩悩にはかかわりたく、あの月のように澄みきっていて、奥ふかく没してゆくとみた。

16 鴈(かり)をはなちてやぶる艸(くさ)の戸        蕉

  〔秋〕‐雁。「月→雁」「雁→旅ね」。『猿蓑』の「夏の月」の歌仙で、芭蕉に、「草庵に暫く居ては打やぶり」の付句がある。去来が「和歌の奥儀をしらず候」と、西行が頼朝に和歌の奥儀は、と聞かれて答えたことばをそのまま付けたら、芭蕉が「前を西行・能因の境界と見たるはよし。されど直に西行と付んは手づゝならん。只俤にて付ベし」として「命うれしき撰集の沙汰」と直し、「いかさま西行能因の面かげたらん」と言った(去来抄)という有名な俤付の例である。「昔は多く其事を直に附たり。それを俤で附る」というのが、芭蕉の俳諧である。

  ここも、『おくのほそ道』にあたっての芭蕉の旅立ちと見たいところだが、それでは芭蕉から「手づゝならん」と言われるであろう。月が西のかたに入り、雁の列がとんでいく早暁に、草庵を出て、「おくもなく」道に出立する旅人の姿である。

 

17 ほし鮎の盡(つき)ては寒く花ちりて           英

  〔春〕‐花。初折の裏十一句目で、花の定座である。前句の雁を「帰雁」とすれば、秋から春への季移りは自然である。前句で、秋が「霊まつる日」、「月」と二句続いたあと、同じ秋の「雁」をよんで、次の「花」の座に「干鮎」と受けさせるあたり、芭蕉の指導者としての手腕はさすがである。

  ほし鮎はむろん草庵のとぼしい冬場の食品である。それももう春立つころはそろそろ尽きかかる。花の咲くころにはすっかり尽きてしまうであろう。それが「尽きては寒く」である。

  あるいは、そのころ大陸の寒波が時ならず日本列島を襲うこともある。草庵をたたんで旅立とうとするとき、一種寒々とした庵主の心に花が散りかかるのである。素英はなかなか詩心のある男のようである。

18 去年(こぞ)のはたけに牛房(ごぼう)芽を出す      良

  〔春〕‐牛房の芽。「花ちり」はてたのちの晩春の景色である。これで、初折を終る。

19 蛙(かはづ)寝てこてふに夢をかり(借)ぬらん      蕉

  〔春〕‐蛙・胡蝶。畠の辺りの蛙も眠って胡蝶にでもなった夢でも見ていることであろうの意で、長閑なさま。荘周の故事を踏まえたもの。

20 ほぐししるべに國の名をきく               風

  〔夏〕‐火串。火串とは、夏山で夜、鹿を射るための照射の松明をはさんでおく木。蛙も寝てというより、夜更けての山越えとし、たまたま火串を見かけて、それをしるベに辿り行き国名を尋ねた。

 西行に、「ともしする火串の松もかへたくに鹿のあはせで明す夏の夜」の歌がある。

21 あふぎにはやさしき連歌一両句              良

  〔夏〕‐扇。国名をきいた礼に優雅な連歌を書きつけた扇を与え去った。あるいは国の名をきいた人が、水茎の跡もやさしく連歌を書きつけた扇を持っていた。いずれともとれるのが、俳諧である。

22 ぬしうたれては香(か)を残す松             英

  〔雜〕連歌をたしなむ主人が討たれた後は、遣愛の松にその香をしのぶのみである。それでよいが。素英が前句の「連歌一両句」に「香を残す松」と付けたとき、阿古耶の松を連想していたにちがいない山形市の東南の千歳山は全山松におおわれ、いかにも「山」らしい形をしている。その千歳山に、「みちのく」の歌枕になっている阿古耶の松がある。

  藤原豊成のことは、中将姫伝説のさいふれた。『出羽の伝説』によれば、出羽に左遷された豊成は娘の阿古耶姫をつれて、千歳山のふもと、平清水に住んでいた。阿古耶姫が琴をひいていると美青年があらわれて、笛をふいてあわせる。いつしか二人は人目を忍ぶ仲となった。名を聞いても青年は「名取の太郎」と答えるだけであった。ある夜、青年が「私は千歳山の老松の精である。今夜かぎりでこの世の別れだ」といって消えうせた。おりしも名取川の橋が洪水で流され、千歳山の老松を橋の材に使えという神託で、この老松が伐られた。阿古耶姫は、青年の菩提をとむらうため、千歳山に庵をたて、かたみに一本の松を植えた。これが、阿古耶の松である。

  この話にでてくる名取川は、仙台と山形を結ぶ笹谷峠から流れ出て、仙台市のすぐ南で太平洋にそそぐ。この千歳山の松は笹谷峠をこえて陸奥にはこばれたというから、陸奥と出羽を結ぶ雄大な話で、各地に流布しているようだ。

  芭蕉はこの話を、仙台に入る前、武限の松のこととして書いている。「先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此たび跡もなし(「武限の松はこの度跡もなし千年を経てや我は来つらむ」)とは詠たり。代々(よよ)あるは伐(きり)、あるひは植継などせしと聞(きく)に、今将(はたち)千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。」

  この話は、世阿弥作といわれる謡曲「阿古屋松」でも、人々によく知られている。ワキは中将奥方で、出羽の阿古屋の松をたずねる。シテの老人は、千賀(ちか)の塩釜の明神の化身で、この話も陸奥と出羽を結んでいる。

  『平家物語』巻2の「阿古屋之松」の段でも「阿古屋之松」を みるのは、中将藤原実方で、里の翁は、「みちのくのあこ屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬか」の歌を詠む。

  謡曲では、この塩釜明神の化身は、中将実方にむかって、『古今集』にある紀貫之の歌「君まさで煙絶えにし塩釜のうら淋しくも見え渡るかな」を口ずさむ。和歌二つを「やさしき連歌一両句」というのも、千歳山の松の「ぬし」が伐られたのを「ぬしうたれては香を残す松」というのも、俳諧である。

  この阿古耶の伝説には、多くの異説がある。父は藤原鎌足のひまごの中納言豊充ともいい、また一説に阿古耶姫は中将姫の妹ともいう。豊成は、奈良時代の武智麻呂の長男(弟が仲麻呂)で、大宰員外帥に左遷され、病と称して難波に留ったことはあっても出羽に流されたことはない。史実とちがっても、当麻寺の中将姫にからむ伝説が、出羽に多いということは面白い。

23 はるゝ日は石の井なでる天(あま)をとめ         風

  〔恋〕‐天乙女。「松→井の水。」「香を残す松→天女。」人間界にとらえられた天女が、晴れた日に、石の井をなでながら天上の故郷をしたっている。これは羽衣伝説である。

 拾遺集に「君が代は天の羽衣まれにきて撫(な)づとも尽きぬ厳 (いはほ)なるらむ」がある。

  清風の在所尾花沢のすぐ近くの延沢に、天人清水とよばれる所がある。『出羽の伝説』によれば、延沢家の城主満重には子がなかったので観音と弥陀ヶ岳の阿弥陀に七日の願かけをした。満願の日、弥陀ヶ岳を下る清水の池があり、数人の天女が羽衣を松の枝にかけて、水浴みをしていた。一番きれいな天女の羽衣をかくして、それを妻にした。三年ののち、玉のような男子が生まれた。      月若丸という。月若丸が七歳のときの七夕の夜、父が山形の最上家との合戦に出ている留守、天女である母はかくされていた羽衣をみつけて天に帰る。のこされた手紙には、水浴みをしていた清水の池のあたりに城をたてよ、天から用材を送ると書いてあった。この城は、敵が近づくと、ふしぎにも霧がたちこめて、姿をかくす。城はいつしか、霞山城とよばれた。今、城は跡かたもないが、羽衣伝 説を語る天人清水にはこんこんと水がわきでている。

謡曲の「羽衣」は、三保の松原の海岸での水浴みだが、この旧羽の羽衣伝説は、山の中の「石の井」での話で、尾花沢の清風が詠むのに、いかにもふさわしい。                            

24 えんなる窓(まど)に法華(はつけ)よむ聲       蕉

  〔恋〕‐艶。前句の天乙女を、仏に供える閼伽水を汲むさまと見て、高貴な女性が何かわけがあって尼となり、その庵室から法華経を読む艶なる声が聞こえてくる。名残の表の初めから、ずっと物語の俤でこの歌仙が続いている。

  平家物語の濯頂の巻、建礼門院が入った大原寂光院の俤とみる。

25 勅に来て六位なみだに彳(たたずみ)し         英

  〔雜〕勅令をうけて来た六位の蔵人が、法華よむ声を聞き、庵室の窓のところにたたずんで、涙をおさえきれない。『平家物語』の「小督(こごう)」の巻、源仲国が嵯峨野に小督の局をたずねた場面の俤とみる。小督の局は、中納言藤原成範の娘で、建札門院のすすめで、高倉天皇のもとに入内する。「宮中一の美人、琴の上手にてをはしける」。ところが、平清盛の怒りにふれ、小督の局は嵯峨野にかくれる。源仲国は、「小督の局を尋ねよ」という勅をうけ、八月十日あまりの月の明るい夜、嵯峨野を訪ねる。すると「片折戸(かたおりど)」した小家から琴の音がきこえる。「想夫恋」という曲であった。小督の局は「あすより大原のおくに」ひきこもろうとしてその名残りに琴をひいていたのである。仲国によってまた宮中に迎えられたが、清盛に捕えられ、尼とされ、嵯峨野でなくなった。前句を建札門院の大原の俤とみれば、これほど付句によりそった故実はない。六位の蔵人が聞いたのは、「法華よむ声」ではなく、琴の音であったが、それを「法華よむ声」につけたのも俳詣である。

26 わかれをせむる炬(たいまつ)のかず           良

  〔雜〕前句を「わかれ」にあたって涙にくれてたたずんでいるとみて、追手の大勢の炬をみて、「早く」とうながしている。戦陣のさま。曾良は芭蕉とともに、衣川のほとりで、義経らの自害の跡をみてきた。『おくのほそ道』には、「偖(さても)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城(じょう)春にして草育みたり、と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」とある。

  芭蕉の句は「夏草や兵どもが夢の跡」で、曾良は「卯の花に兼房みゆる白毛かな」と詠んだ。

  前句の「なみだに彳し」に「わかれをせむる炬のかず」と付けたとき、曾良の念頭にあったのは、義経と兼房のことであったにちがいたい。

  『義経記』によれば、藤原泰衡がおくった二万騎の大軍に衣川をかこまれて、義経が自害したとき、それに立ちあったのは、兼房である。弁慶も討死したあと、義経は自ら、腹かきわったが、さすがに北の方を刺すことはできない。義経は兼房に、北の方を刺せという。兼房は「たみだに彳む」ばかりであったが、今は「甲斐(かひ)あらじ。敵の近づくに」と腰の刀をぬき、北の方の右の脇から左へ刺通した。ついで五つになる若君をだき、またさめざめと泣いたが、「敵はしきりに近づく。かくては叶はじ」と、二刀(かたな)刺し貫き、さらに生まれて七日の姫君を同じく刺し殺した。兼房が白毛をふったてての火の中での奮闘は、それからである。「わかれ」は、この世との別れであり、それを敵の「炬のかず」が早くと「せむる」のである。

 『義経記』には「炬」は見えないが、それを「わかれをせむる炬のかず」といったところが、いかにも急迫したいきおいがある。

27 一(ひと)さしは射(い)向の袖をひるがへす       蕉

  〔雜〕「射向の袖」とは、鎧の左の袖である。国文学者は、『太平記』の「吉野の城軍の事」、大塔宮が吉野蔵王堂の大鹿で、最後の酒宴のとき、木寺ノ相模が四尺三寸の太刀の先に敵の頭を指し貫き、鎧の袖をひるがえしながら勇壮な舞を一さし舞った場面の連想とする。前句を衣川のほとりでの義経らの「わかれ」とみる。この芭蕉の付句も、前九年の役のさい、衣川での、源義家と安倍貞任の連歌と考える。『古今著聞集』巻九の「源義家衣川にて安倍貞任と連歌の事」によれば、「衣河の館(たち)、岸高く川ありければ、楯をいたゞきて甲(かぶと)にかさね、筏(いかだ)をくみて責戦(せめたたかふ)に、貞任等たへずして、つゐに城の後よりのがれおちけるを、一男八幡太郎義家、衣河においたてせめふせて、「きたなくも、うしろをぼ見する物哉。しばし引かへせ。物いはん」といはれたりければ、貞任見帰りたるに、「衣のたてはほころびにけり」といヘりけり。貞任くつばみをやすらヘ、しころをふりむけて、「年をへし絲のみだれのくるしさに」と付たりける。其時義家、はげたる(「つがえた」の意)箭をさしはづして帰(かへり)にけり。さばかりのたゝかひの中に、やさしかりける事哉」とある。

  源義家は「一さしは射向の袖をひるがヘ」したのである。この合戦の時、義家の父頼義は貞任らの柵を攻めあぐねて、神火と称してみずから火を切り、柵に投じ柵を焼きはらったという。前句の「炬のかず」の俤である。

  岩波『古語辞典』によれば、「ひとさし」は「相撲・舞などの一番、一曲」とし、『古今著聞集』にある相撲のさいの「勝負これによるベきにあらず、ひとさし仕う奉るべし」と言ひて、とあるのを例にあげている。「ひとさし」は弓矢の勝負の「ひとさし」には使わないのであろうか。義家がつがえた矢をひるがえしたのを、舞の一曲とみることもできる。「俳諧の連歌」とよばれた連句に、義家と貞任の連歌をくみいれたとみたほうが、俳諧としてはおもしろい。

28 かは(わ)きつかれてみたらしの水           風

  〔雜〕「みたらし」は「御手洗」である。前句の「一さしは一刺しにも通じるから、清風は前句を戦場における大奮闘のさまと見たのであろう。一戦交えて、かわきつかれた喉を社頭の御手洗の水でうるおしたのである。「一さし」の用例は広いようである。「一刺し」にも通じる。「わかれをせむる炬のかず」から、戦陣のさまが一二句続いたにすぎない。その戦陣のさまも、義経のこの世との「わかれ」、義家と貞任がかわした連歌、御手洗の水と、変化に富んでいる。

29 夕月夜宿とり貝も吹(ふき)よは(わ)り        良

  〔秋〕‐月。名残の表の月の定座である。前句の「みたらしの水」を飲む

人を、山伏の一行と転じて、「夕月夜」に先達がやっと宿にたどりついたが、その合図の「ほら貝」の音も、「かはきつかれ」たため、吹く音が弱々しい。

30 とくさかる男(を)や蓑わすれけん           英

  〔秋〕‐木賊刈る。謡曲「木賊」の老翁を付けた。諸国遍歴の僧の一行が「露分衣(つゆわけごろも)しほたれて」信濃路にきて、木賊刈る老翁にあう。翁には別れた子がある。「若しも行方や聞くと思ひ、此路次に居処を立て、行来(ゆきき)の人を留め候」といい、「誰そや我が子と夕月夜」の章句がある。

  前句の「夕月夜」に、この謡曲を付け、「露分衣しほたれて」を「蓑わすれけん」と言いかけたとする。これで名残の表を終る。

31 たまさかに五穀のまじる秋の霧             風

  〔秋〕前句の「とくさかる」野のあたりの景を詠んだ。まれに五穀が実っているだけで、あとは秋の草が一面に露にぬれている。新勅選集の寂蓮の歌に「木賊刈る木曽の麻衣袖ぬれてみがかぬ露も玉と置きけり」がある。

32 篝(かがり)にあ(明)ける金山(かなやま)の神    蕉

  〔雜〕「五穀→神」。「金山」は鉱山で、その神とは金山彦である。国文学者は、鉱山のあたりは作物に適さぬところが多いので、それが前句の「たまさかに五穀のまじる」に通じるとする。だが、この芭蕉の付句は、そんなにつまらない作意ではない。

  農耕民族はすべて、五穀の生成についての神話をもっている。日本でも、五穀は、火と土とが結合してうまれる。イザナミが火神カグツチを生んで焼け死んだことを、『日本書紀』第二は、「その終(かむさ)りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姫(はにやまひめ)および水神岡象女(みつはのめ)を生みましき。即ちカグツチ、埴山姫に娶(あ)ひて稚産霊(わかむすび)を生みき。此の神の頭の上に、蚕と桑と生(な)り、臍(ほぞ)の中に五穀生りき」という。火が土と交って、五穀を生んだ。

『日本書紀』第四はイザナミが火神カグツチを生むとき、熱に悩んで、吐いた。「此れ神となる、名を金山彦という」、次に小便から生まれた神が岡象女(みつはのめ)で、大便から生まれたのが埴山姫だとする。これは『古事記』と同じ説話である。『日本書紀』の第十一は、天照大神が天上にいて、「葦原中国(あしはらなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)ありと聞く、宜しく爾(いまし)月夜見尊ゆきて候(みま)せ」と命じた。月夜見が保食神のもとに行くと、口から飯(いひ)や魚を出して饗(みあへ)たてまつった。月夜見は怒って、「穢(けが)らはしきかも、鄙しきかも、口より吐(たぐ)れる物を以て敢て我れに養(か)ふ」といい、剣を抜いて打ち殺した。死んだ保食神の頂(いただき)に牛馬が、額の上に粟が、眉の上に蚕が、眼の中に稗が、腹の中に稲が、陰(ほと)の中に麦・大豆・小豆が生れた。『古事記』は、打ち殺したのがスサノオとなっている。

 ここで注目されるのは五穀が高天原で生じたのではなく、「葦原中国」で生まれたという点である。 

以上の神話から、金山彦という鉱山の神は火神が生まれるときにでき、火神が土神とさらに水神と結合して五穀が生じたことが明らかである。そうすれば、芭蕉が前句の「五穀」と「秋の露」の水に、「篝」 という火と、「金山の神」を付けた意図もはっきりする。五穀は鉱山の「篝」の中でこそ生まれたのだ。

元禄二年(一六八九)、「おくのほそ道」行脚中の芭蕉と曾良は、岩出山から軽井沢を越えて尾花沢へぬける予定であった。『曾良随行日記』の五月十四日の記事に、「中新田町 小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)原ノ町 門沢(関所有)漆沢軽井沢 上ノ畑 野辺沢 尾羽根沢 大石田乗船。岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。」とある。このコースは、「道遠く難所これあるよしゆえ」でに出羽街道中山 越えに変更した。        

軽井沢‐上ノ畑‐野辺沢コースは野辺沢銀山越えであり、芭蕉は野辺沢銀山を知っており、ここで銀山の金山(かなやま)の神を出したのであろう。    

延沢銀山は、国民保養温泉地の銀山温泉にあり、昭和六十年十二月二十一日、「延沢銀山遺跡」として国指定史跡となった。

慶長年間(一五九六〜一六一四)の開発で、寛永・正保期にかけて栄え、その後も寛文ごろまではかなりの産銀があり、一時は佐渡や石見・生野の産銀にも匹敵した。   

延沢銀山は歴史の短い銀山であったが、それが幸いして江戸初期の間歩(坑道)や疎水(排水坑)が比較的良い状態で残っている。わが国の近世鉱山史研究にとって欠くことのできない鉱山遺跡として、石見銀山遺跡に次いで国指定史跡となり、その保存と整備が図られている。

33 行人(ぎょうにん)の子をなす石に沓(くつ)ぬれて    英

〔雜〕松井鷲十は「行人」をコウジンと読んで旅する人とし、「子をなす石は、岩代国信夫郡鎌田村新町の石ヶ森大明神の西の田の中にある。子を生む石で、大小幾多の石の中に、男石と女石とがあり、女石の穴から年々大豆大の子石を生むといふ。道行く人の沓が、子を生む石の群れにふれた」という。

大淀三千風が尾花沢を訪れたのは、貞享三年(一六八六)九月である。『日本行脚文集』巻七には、次のように記されている。

暮秋念(ハツカ)最上延沢。銀山のふもと。尾花沢に着ク。当所にハ予が好身(ヨシミ)。古友あまたあれば。三十餘日休らひ。当所の誹仙(ハイセン)。鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに。都桜に鞭(ムチ)し給ひ。いまだ関をこえざりしとなん。本意(ホイ)なミながら一紙を残す。記は略ス。(中略)

   稲乳のいなにハあらず鉢袋

   しられけり鉄西行の秋の暮           羽州大石田 

                            鷹野氏 一栄

   尾花うら枯(ガレ)て。牛の細道行暮(クレ)む 尾花沢 

                            村川残水

   行脚衣。気をしのぶずりの秋暮む          歌川俊親

   水風呂や烏衣の一しぐれ              鈴木似体

   落葉路も気転(キテン)や騅(スイ)の馬ざくり   三井崇(宗)智

   四面は雪の最上早歌(ソウカ)ス

   可強(コワカンベ)根甲(ネッコウ)焼(タイ)て草鮭あてん 

                            タカノス 
                             鈴木氏宗圓

   オ七々(ナナ)の眉(マユ)の霜うすハ申(モウサ)

   見しは水鶏(クイナ)今又鴛(ヨシ)の別かな    最上谷地

                            田宮氏年玄

 鈴木清風とは、上京中で会うことができなかった。

三千風は、尾花沢滞在中、二十数年ぶりに中島村の子持石を見て「子持石ノ記」を記している。

銀山の隣郷。中嶋村に中古(コロ)。文禄年中。なにがし田園翁。熊野参詣七度の立願満ずる年。那智の濱にて。小美(イタイケ)なる石一つ拾ひ。前巾着(ギンチャク)にいれて下向せしが。年月を経(フ)るにしたがひ。此石ふとりける程に。(中略)余二十餘年むかし見しに又倍(バイ)せり。いかにも慥なる事に侍る、かならず疑 (ギ)心あるべからず。

o 月にとハン神代には有や子持石

o 最上河の船津にすめるときゝて。古友のむかしをとふらひしに。饗シおほかたならず

o をのをの挨拶の句ども。銘(メイ)々に脇に小序せしが略す

o 偖あるべきならねバ。なごりおしげにかヘリミ。みなミむきに仙臺へとこゝろざし。

最上のうち楯岡(タテオカ)村は。予が好身。かつ朋友どもひらに滞(トドマリ)てよと。

五日ばかり徒然種(ツレヅレグサ)を講(カウ)じ。    

尾花沢において縁者村川残水・三井宗智・鈴木宗圓(鷹巣住)尾花沢の俳友鈴木似休・歌川俊親(東陽)、大石田の鷹(高)野一栄、谷地の田宮年玄とあい、三十余日滞在した。

〔大淀三千風『日本行脚文集』巻七

             (『近世文学資料類従』古俳諧編37所収 勉誠社)〕

大淀三千風は、伊勢国飯野郡射和(現在、三重県松坂市射和町)の人。本姓は三井氏、名は友翰。自ら大淀氏と称す。編著には、『日本行脚文集』『仙台大矢数』『法語三大物語』『鴫立沢』『倭漢田鳥集』『三千風笛探』などがある。はやくも十五歳一の春から俳諧に親しみ、行脚を志したが寛文九年(一六六九)薙髪(ていはつ)、仙台に赴き、松島雄嶋の庵室に一五年間滞在した。天和三年(一六八三)四月四日、仙台を出立し、七年間にわたって全国を行脚、その紀行を元禄三年(一六九〇)にまとめあげたのが『日本行脚文集』である。 

34 ものかきながす川上の家                 良

  〔雜〕「沓ぬれて」から前句を川辺の景とみて、願文などを書いた紙を、川上から流すのである。

35 追ふもう(憂)し花す(吸)ふ蟲の春ばかり       風

  〔春〕名残の裏の「花」の定座である。「うし」は「憂し」、「すふ」は「吸ふ」、花の咲きみだれる川辺の野に、虫が花の蜜を吸っている、のどかな春の景である。

36 夜のあらしに巣をふせく鳥               英

  〔春〕‐鳥の巣。この歌仙の発句で、芭蕉は「すゞしさ」を「我が宿」にしてねまっているが、鳥たちの「我が宿」は、春の夜の「あらし」にゆれている。発句に見あった挙句である。

 

 

  歌仙「おきふしの」の巻     (『繋橋』所収)

 

1  おきふしの麻にあらはす小家かな           清 風

2  狗(いぬ)ほえかゝるゆふたちの簑          芭 蕉

3  ゆく翅(つばさ)いくたび罠(わな)のにくからん   素 英

4  石ふみかへす飛(とび)こえの月           曾 良

5  露きよき青花摘(あをばなつみ)の朝もよひ        蕉

6  火の氣(け)たえては秋をとよみぬ            風

7  この島に乞食(こじき))せよとや捨(すて)つらむ    良

8  雷(かみ)きかぬ日は松のたねとる            英

9  立(たち)どまる鶴のから巣の露さむく          風

10 わがのがるべき地を見置(おく)也            蕉

   国史跡「延沢銀山遺跡」の銀山などはキリシタンや罪人のアジトとなった。

11 いさめても美女を愛する国有(あり)て          英

 

   国史跡「延沢銀山遺跡」の傾城平

  銀山経営には、やはり繁華街が必要であった。新町の御屋敷街・温泉街の本町それに遊郭街の傾城町で、遊郭街へは御屋敷街から銀山川に鉄の橋をかけて通路にしたのである。「遊女役」は、極印・仲・ズリ役と合わせて五人仲間の山師たちが請けもっていたので、遊女役がどれだけであったのかは不明である。院内銀山の例では遊女1人1か月の税は、上で銀十五匁、中は銀十三匁、下は銀十匁が課せられていた。外に「洗濯役」があるが、これは洗濯に雇われた女に課税した。ただ、この種の女は私娼化していたようである。院内では、洗濯女が非常に多くなり、そのために遊郭街が衰退したと伝えられている。

  当時の鉱山労働者は、それなりにプライドをもって働いた。しかし、激しい労働と坑内の石粉を吸いよろけ病になる者が多く、「宵越しの金は持たぬといい」酒と色とに身を沈めて死ぬ者も少なくなかったのである。彼らの寿命は短く、平均三十歳前後といわれる。

咲きほこる最上紅花

12 ベに(紅)おしろいの市の争ひ              良

傾城平では鉱夫(男)たちが遊女たちを奪いあった

13 秀句には秋の千種(ちぐさ)のさまざまに         蕉

14 碑(いしぶみ)に寝てきさかたの月            風

15 篷むしろ舟の中なるきりぎりす              良

16 つかねすてたる薪(まき)雨にほす            英

17 貧僧が花よりのちは人も来ず               蕉

18 灸(きう)すえ(ゑ)ながら眠(ねむ)きはるの夜     風

19 まつほどは足おとなくてとぶ蛙              英

20 菅(すげ)かりいれてせばき賤(しづ)が屋        良

21 はての日は梓(あづさ)にかたるあはれさよ        風 

「梓」は、梓巫女で梓弓の弦を鳴らし、その呪術によって死霊をよびよせ、その声を死者の家人に告げるのである。

芭蕉にも、元禄元年の「雁がねも」の歌仙に、「ものおもひ居る神子の物云」の付句がある。

22 今ぞうき世を鏡うりける                 蕉

    国史跡「延沢銀山遺跡」の鏡か鋪(坑口)

中平の鏡か鋪は白崎多右衛門が普請した間歩であるが、立合(岩石の中に白い筋‐石英‐が引きわたること)になかなか突き当らず、そのうち資金が尽きてしまった。そこで女房は嫁入り道具の鏡を売って資金にかえて、夫の窮状を助けたため、遂に西山第一の鋪になった。「鏡か鋪」は女房の名を称えた名前だという。

23 二の宮はやへの凡帳(きちやう)にときめきて       良

24 鳥はなしやる月の十五夜                 英

25 舎利(しやり)ひろふ津輕(つがる)の秋の汐ひがた    蕉

26 桝(さんせう)かける三ツの樟(くす)の木        風

27 つくづくとはたちばかりに夫(つま)なくて        英

28 父が旅寝を泣(なき)あかすねや(閨)          良

29 うごかずも雲の遮(さへぎ)る北のほし          風

30 けふも坐禪に登る石上                  蕉

31 盗人の葎(むぐら)にすてる山がたな           良

32 簗(やな)にかゝりし子の行(ゆく)へきく        英

33 繋(つなぎ)はし導く猿にまかすらん           蕉

34 けふりとほしき夜の詩のいへ(家)            風

35 花とちる身は遺愛寺の鐘撞(つき)て           良

36 鳥の餌わたす春の山守(やまもり)            蕉