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    義 経 伝 説 と 最 上 川  

             

           尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

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最上川に落ちる白糸の滝


 一 歌枕としての最上川 

最上川が文学の世界に登場するのは、わが国最初の勅選和歌集である『古今和歌集』(二〇巻・一一〇〇首)の時代、延喜五年(九〇五)のことです。

もがみ河のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり (巻二〇・一〇九二)   

この和歌は、東歌の中に収められた詠み人知らずの陸奥歌(みちのくうた)です。恋をうちあけられましたが、「のぼればくだる」(心が通う)、愛を受けいれます。最上川を上ったり、下ったりしている稲船(いなふね)のその「いな(否)」ではありませんが、この月ばかりは都合が悪くてお逢いできません、という意味の恋の歌です。

この和歌から最上川には稲船(いなふね 国の役所に納める租を積んだ船)が上り下りしていたことがわかります。「延喜式」(九〇五年)によると、最上川に全国唯一の「水駅(すいえき)」として野後(のじり駅馬一〇疋、伝馬三疋・船五隻、大石田町大字駒籠)・避翼(さるはね駅馬一二疋、伝馬一疋・船六隻、舟形町大字富田)、佐芸(さけ駅馬四疋・船一〇隻、鮭川村大字佐渡字真木)などが置かれ、「母なる河」最上川は古代においても他にかえがえたい貴重な連絡路であったのです。

そのため、最上川は稲船とともに東北地方を代表する歌枕(うたまくら)となって、後世の歌人たちに歌い継がれていくようになります。

もがみがは人をくだせばいなふねのかへりてしづむものとこそきけ

(寂然法師  続後撰 巻十)     

もかみ河いな舟のみはかよはずでおりのぼり猶さわぐあしがも

(源  順  夫木 巻一七)     

もがみ河おちくる滝のしらいとは山のまゆよりくるにぞありける

(源  重之  夫木 巻二六)    

つよくひくつなでと見せよもがみ河そのいな舟のいかりおろさで

   (西  行  夫木 巻二四)     

もがみ河はやくぞまさるあまぐもののぼればくだる五月雨の比

       (吉田兼好  五月雨)        

最上川は、『古合和歌集』『後撰和歌集』『千載和歌集』『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『新後撰和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『新葉和歌集』『古今和歌六帖』『万代和歌集』『夫木和歌集』など、数多くの歌集に登場しており、歌の数も七六首にのぼっています。

歌枕は、特定の連想(イメージ)をうながす言葉としての地名であり、現地を知らずに用いられる場合が多かったようです。

 

  二    義  経  伝  説  と  最  上  川

『義経記(ぎけいき)』あらすじ

本合海を流れる最上川

「判官(ほうがん)びいき」の言葉に代表される、英雄的で悲劇的な源義経の生涯を描いた『義経記』があらわされたのは室町時代のことである。

主人公の義経は、義朝(よしとも)と常磐(ときわ)との間に平治元年(一一五九)に生まれたものの、父がその年におきた平治の乱で敗死したことで、孤児として成長した。母に連れられ大和の宇陀郡にいったんはのがれたのだが、平氏の追及にあって京に戻ると、やがて鞍馬寺(くらまでら)に童(わらべ)紗那王(しゃなおう)としていれられることになる。

しかし、義経はそこで武勇を磨くうちに、父の敵を討つことを志して奥州にのがれていった。その奥州では自由な生活を送っていたが、ひそかにぬけだして上洛(じょうらく)し、鬼一法眼(きいちほうげん)から兵法の書を奪ったり、弁慶(べんけい)とたたかって従者にするなどの活躍をして、再び奥州にくだった。

やがて治承(じしょう)四年(一一八〇)になって平氏追討の命令がだされ、兄の頼朝(よりとも)が伊豆(いず)で挙兵したのを聞くや、これに合流し、兄の命によって平氏との合戦を遂行した。

そして一一八五年三月二十四日、平氏を滅ぼす英雄的な活躍をしたのであるが、この付近の合戦の様子について、『義経記』はほとんどふれておらず、かわりに平氏滅亡後の頼朝との不和を詳しく描いてゆく。

頼朝が怒っていると聞いて鎌倉にくだってきた義経は、一一八五年五月二十四日腰越(こしごえ)から書状で弁明したがうけいれられず、しかも十月十七日頼朝が送った刺客(しかく)士佐房昌俊によって京の宿所を襲われた。ここにおよんで十月十八日挙兵したものの、十一月五日船出に失敗して没落することになる。のがれた吉野(よしの)で九月二十日の従者の佐藤忠信(さとうただのぶ)の果敢な戦いや、九月二十一日義経に味方した南都(なんと)の僧、一一八六年三月一日義経の愛妾(あいしょう)である静(しずか)が鎌倉に連れてこられての物語などが語られてゆく。

そうしたなかで義経は、一一八七年二月十日京をのがれ北陸道を経て奥州の藤原氏の許に落ちてゆき、そこで再起をかけたところが、藤原泰衡(やすひら)に襲われ、一一八九年閏四月三十日非業の最期をとげることになった。

中世における最上川舟運の実態を示す史料はほとんどありません。室町時代初期に書かれた『義経記(ぎけいき)』(東北の物語がはじめて都で出版)の中に、源義経主従が平泉に落ちのびる途中、清川(立川町)から合海(新庄市本合海)まで最上川を川船で溯る様子を記しています。

『義経記』第七巻では、九月二十日佐藤忠信の死、三月八日勧修坊(かんじゅぼう)・三月一日静(しずか)のあいつぐ鎌倉召喚と、きびしい追及に身辺に危険が迫って来たことを知って、義経は再び秀衡を頼って古巣の奥州へ身を隠すことを決心する。この巻は、その判官(ほうがん)一行の奥州落ちを描いたものだが、牛若時代に辿(たど)ったコースとは違って、今度は北国路をとって苦難の旅をつづけることになる。

冒頭の「判官北国落の事」では、一行は総勢十六人、山伏姿に身をやつし、北の方を稚児(ちご)に仕立てて下る場面が描かれている。『吾妻鏡(あずまかがみ)』文治三年(一一八七)二月十日の条によると、「前伊予守義顕(よしあき 義経のこと)日来(ひごろ)所々ニ隠レ住ミ、度々追捕使(ついぶし)ノ害ヲ遁(のが)レ訖(おわ)ンヌ。遂ニ伊勢・美濃等ノ国ヲ経テ、奥州ニ赴ク。コレ陸奥守秀衡(ひでひら)入道ノ権勢ヲ恃(たの)ムニ依リテナリ。妻室男女ヲ相具ス。皆姿ヲ山臥(やまぶし)並ビニ児童等ニ仮ルト云々」とあり、彼らが作り山伏となって奥州に下ったという風説が一般化していたことが知られる。

落人として追われる身の旅は、予期以上にきびしく、大津・愛発山(あらちやま)・三の口(みつのくち)・平泉寺(へいせんじ)・如意の渡(にょいのわたし)・直江津(なおえつ)と危難がつづくが、その都度(つど)弁慶の機知と胆力によって救われる。その難関突破の趣向と駆引きが、この物語のひとつの見せ場になっているといってよい。この道は、古くから熊野と羽黒の山伏の交通路に当たっており、その往来も多く、追捕(ついぶ)の目をのがれるには恰好(かっこう)の着想であったわけだが、この物語を読むと、道中の地理にくわしく、山伏についての知識も豊富で、熊野山伏の廻国文芸として語り出されてきたものであろうという。最後に述べられている亀割山(かめわりやま)での北の方の出産譚も、愛発山で弁慶が語る山中誕生譚とおなじく、「熊野の本地」を背景にしたものとのこと。ここにも熊野系の語りの痕跡(こんせき)がうかがえる。

 

 日本古典文學大系37  岡見正雄校注『義經記』(岩波書店刊行)第七巻

 (前略)

念珠の關(1)、大泉の庄(2)、大梵字(3)を通らせ給ひて、羽黒権現(4)を伏拜み參らせ、清河(5)といふとこに付(著き)て、すぎのをか船(6)に棹して、あいかはの津(7)に著かせ給ひて、道は又二つ候。最上郡にかゝりて、伊奈の關(8)を越えて、宮城野の原(9)、榴の岡(10)、千賀の鹽竈(11)、松島(12)など申(す)名所々々を見給ひては、三日、横道にて候。(13)それよりのちさうたう、(14)龜割山を越えては、むかし出羽の郡司が娘小野の小町(15)と申(す)者の住み候ひける玉造(16)、室の里と申(す)ところ、又小町が關寺(17)に候ひける時、業平の中將東へ下り給ひけるに、妹の姉齒が許へ文書きて言傳しに、中將下り給ひて、姉齒を尋ね給へば、空しくなりて、年久しくなりぬと申せば「姉齒が標はなきか」と仰せられければ、ある人「墓に植へ(ゑ)たる松をこそ姉齒(18)の松とは申(し)候へ」と申(し)ければ、中將姉齒が墓に行きて、松の下に文を埋めて讀み給ひける歌、栗原や姉齒の松(19)の人ならば都の土産(つと)にいざと言はましものをと詠み給ひける名木を御覧じては、桧山一つだにも超えつれば、秀衡の館(たち)は近く候。理に枉(ま)げてこの道にかゝらせ給ふベし」と申(し)ければ、判官これを聞き給ひて「是は只者にてはなし。八幡の御計らひと覺ゆるぞ。いざやこの道にかゝりて行かん」と仰せられければ、(以下略)

 

(1)  羽前国西田川郡念珠関村(今は温海町の中)にあった関。奥州三関の一、鼠関とも念種関と書く。越後との国境である。

(2)  羽前国西田川郡鶴岡町(今は鶴岡市)を中心とした荘園名。中世には大宝寺武藤氏(大泉氏)が頭(後に羽黒山俗別当を兼ねた)としていた。故に今の鶴岡市一帯を荘内(庄内)と呼ぶ。荘園(応永九年長堂領目録)として有名。酒田湊までが大泉庄に含まれたか。

(3)  鶴岡市の大宝寺町字大宝地の地名が今もある。武藤氏の居城(衆徒が居た里坊的な寺でもあったろう)。大梵寺(羽源記)、大梵字・大宝寺等に書く。

(4)  大梵字が里坊として羽黒山の遥拝所であったか。

(5)  羽前国東田川郡清川村(今は立川町の中)。清川(立谷沢川)が最上川と合する所。元来出羽三山の祓河として清河といったか。

(6)  杉の陸舟の意か。阿波本「すきのおかふね」。

 (7)  羽前国最上郡矢向村本合海(今は新庄市の中)、昔、合川津といわれた。最上川の中流。

 (8)  出羽と陸奥との間の関所。うやむやの関。

 (9)  陸前国宮城郡の野(今の仙台市の中)の名。萩の名所として知られる歌枕。

(10)  宮城野の中の地名。今も榴ガ岡公園が仙台市にある。「陸奥の躑躅の岡の熊つゞらつらしとをけふぞ知りぬる」(古今六帖第二)。

(11)  陸前国宮城郡塩竈町(今の塩釜市)。千賀浦があるので、千賀の塩竈という。元来浦の藻塩を釜で焼く事から起った歌枕の地名。「陸奥のちかの塩竈ちかなから遥けくのみも思ほゆる哉」(古今六帖三、伊勢)。

(12)  陸前国宮城郡松島町の辺の浦の名。

(13)  阿波本「かなよりのちさうたう」、諸本「かなよりの地蔵堂」とある。但しいずれの地か不明ある。

(14)  羽前国最上郡船形村(今は船形町)の北、瀬見川(小国川)の右岸にある三百米程の山。最上に属する。

(15)  小野小町は出羽国郡司良真の女という(小野氏系図)説も伝わっている。

(16)  陸前国玉造郡大崎村(今は古川市)に小町の墓と伝える所がある。室の里はそこか、或いは近くの名生里(同じ玉造郡大崎村の中)か。

(17)  近江国逢坂山の関寺。

(18)  陸前国栗原郡沢辺村(今の金成町)姉歯に姉歯の松があったという。伊勢物語によって出来た伝説である。但し義経記のこの話は他に見えない。

(19)  伊勢物語第十四段に見える「栗原の姉歯の松の人ならば都のつとにいざと言はましを」によった歌。栗原の姉歯の松が人であるなら、都への土産にさあ一緒に行こうというものをの意。

 

出羽国念珠の関(鼠ケ関)が最後の難所であった。出羽国に入ると、平泉藤原氏の領国であり、この関が最後の難関であった。今日伝えるところの鼠ケ関址は江戸時代の関であり、出羽国側にあるが、中世の関は越後領の鼠噛岩といふ海上に突出した地にあったようである。いはば勿来処(くなど)・勿経処(ふなど)の地であり、国境の塞の神を祀る難所に関所が設けられ、海坂神(うなさかがみ)、石動神社を祀っていた。鼠噛岩は海蝕によるものだが、あたかも鼠噛りのやうな岩形をとどめている。

弁慶は念珠ケ関にかかるや、義経を下種(げす)山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高(かさだか)に負わせ、「あゆめや法師」と木の枝で鞭うちながら関に近づいた。関守は「何の咎(とが)あって痛めつけるか」と聞くと、「我等は熊野山伏だが、この男は先祖代々熊野に仕えて来た山伏の家の者なのに、旅の途中から行方知れずとなり、漸く最近見つけ出したというわけで、どんなひどい罰でも受けさせたい。」という中にも隙もなく打ち据えて通った。関守は弁慶の機智にまどわされ関の木戸を開けて一行を通した。関をすぎると程なく出羽国に入り、原海(現在のJR鼠ケ関駅前)に宿り、海ぞひの道をたどる。『おくのほそ道』の芭蕉は義経一行とは逆に越後路を目指したわけだが、曾良の『随行日記』は鬼の掛橋の難所を筆にとどめている。まして『義経記』の成立期には道らしき道もなかったであろう。小波渡(こはと)から一行は笠取山に入り、三瀬の薬師堂に向う。

今日薬師堂址はスキー場(八森山ヒュッテ)になっている。『義経物語』や田中本『義経記』では「みせんの薬師」とあるが、これを弥山(温海嶽)として、熊野信仰を指摘した説があるが、温海嶽に熊野権現の祀られたのは近世に入ってからで、「みせん」は「三瀬」の訛語であろう。

義経主従は三瀬の薬師堂で雨降に遭い、出水のため二、三日逗留した。山地ではちよっとした雨でも出水になり、あるがなきかの道は川となつて溢れ出す。

三瀬の薬師堂へ、田川郡の領主田川太郎の使者が来て祈祷を依頼する。使者の話によると、田川太郎の子供が瘧病にかかり、羽黒山が近いので、羽黒山伏を請じて祈って貰ったが、その効験もない。「熊野・羽黒とて、いづれも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野と申すはいま一入(ひとしほ)尊き御事なれば」貴方がた行者たちもきっと霊験あらたかなことだろうから御祈祷願ひたいという。田川氏の居館に招かれ、義経は護身の役、弁慶は数珠を揉(も)んで祈祷すると、悪霊も死霊も去って、病人は平癒する。

田川太郎の領国庄内の地に威勢を振っていた。『出羽国風土略記』によると、田川氏の居館は田川村の山の際にあり、今は田畑となつて構の土手のみ僅かに残るとしているが、現在は田川小中学校の敷地となつている。田川村字西山の斎藤金治郎氏の敷地内に田川氏の基があるが、典型的な鎌倉期の石塔であり、その巨大さから見て、かっての田川氏の威勢を知ることができる。田川氏の居館は、『義経記』に記すように「羽黒近き」羽黒山信仰のお膝もとで、その領主が「熊野の権現と申すは(羽黒より)いま一入尊き御事なれば」と発言し弁慶の祈祷の結果、「(熊野)権現の御威光の程も思ひ知られ」たというのは、義経記「北国落」が東北文芸として成立したといふ説を否定している。かかる発言は羽黒信仰の強烈だつた東北地方では許容される筈がない。羽黒より熊野が一入尊いとする「北国落」の田川太郎説話は田川氏を代表とする熊野信仰がこの地に成立していたことを明らかにしている。

旧西田川郡や鶴岡市の各部落に殆んどといってよい程、各部落に熊野社が見られる。庄内平野に秀麗な山容を誇る金峯山は、天台宗の三祖慈覚大師円仁の開基と伝える。東北地方の霊地は多く慈覚の開基を称するが、彼の弟子であり継嗣であった延暦寺座主安慧(あんね)が承和十一年(八四四)出羽の講師(こうじ)となつて以来のことで、早くから天台修験が東北地方に進出し、金峯山もまた天台修験の地として、この周辺の熊野信仰の聖地となつていたものであろう。金峯山は古くは蓮華峯といひ、八葉山と呼んだというが、戸川安章氏によると、蓮薬峯・八葉山ともに、天台宗の最も尊重する妙法蓮華経から採ったものであり、蓮の花弁が八葉に分かれていることに基づいている。金峯山青竜寺は久安元年(一一四五)藤原秀衡の再建と伝へているのは、恐らく秀衡の臣であった田川氏によるものと考えてよく、金峯山・熊野長峯・虚空蔵山の三山に囲こまれた地点に田川氏の居館を見る。いはば田川氏は天台系熊野信仰のもとにその勢力を結集していたのである。三瀬葉山の薬師堂もまた東北地方に多い葉山修験の信仰によるものであり、田川氏の居館へは尾根伝ひに通ずる。三山には峯入りのための道が早くから拓かれていたが、田川氏の居館に通ずる道もまた修験者によって拓かれたと考えられる。

 

(前略)此月に當らせ給ふに、萬恐れをなして、弁慶ばかり御代官に參らせらる。残りの人々はにつけのたかうらへかゝりて、清河に著き給ふ。弁慶はあげなみ山にかゝりて、よかはへ參り會ふ。その夜は五所の王子の御前に一夜の御通夜あり。この清川と申(す)は、羽黒権現の御手洗なり。月山の禪定より北の腰に流れ落ちけり。熊野には岩田河、羽黒には清川とて流れ清き名水なり。これにて垢離をかき、権現を伏拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、こゝにては王子々々の御前にて御神樂など参らせて、思ひ思ひの馴子舞し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭をばいや権守とぞ申(す)。御船支度して參らせけり。水上は雪白水増さりて、御船を上(せ)かねてぞありける。これやこのはからうさの少將庄の皿島と云ふところに流されて、「月影のみ寄するはたなかい河の水上、稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、其處とも知らぬ琵琶の聲、霞の隙に紛れる」と謡ひしも今こそ思ひ知られけれ。かくて御船を上する程に、禪定より落ちたぎる瀧あり。北の方、「是をば何の瀧といふぞ」と問ひ給へば、白絲の瀧と申(し)ければ、北の方かくぞ續け給ふ。

      最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白絲の瀧

      最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白絲の瀧

とすさみつゝ、鎧の明神、冑の明神伏拝み參らせて、たかやりの瀬と申(す)難所を上らせ、煩ひておはするところに、上の山の端に猿の聲のしければ、北の方かくぞ績け給ひける。

      引きまはすかちはゝ弓にあらねどもたが矢で猿を射て見つるかな

かくて(最上川を)さし上らせ給ふ程に、みるたから(1)、たけ比べの杉(2)などといふところを見て矢向の大明神(3)を伏拜み奉り、會津(合海)の津(4)に著き給ふ。

判官、「寄道は二日なるが、湊(5)にかゝりては、宮城野の原(6)、榴が岡、千賀の鹽竈など申(し)て、三日に廻る道にて候に、(7)龜割山を越えて、(8)ヘむらの里、姉歯の松へ出(で)ては直に候。何れをか御覧じて通らせ給ふベき」と仰せられければ、「名所々々を見たけれども、一日も近く候なれば、龜割山(9)とやらんにかゝりてこそ行かめ」とて、龜割山へぞかゝり給ひける。

 

  (1)  不明。

  (2)  不明。

  (3)  羽前国最上郡八向村(今は新庄市の中)の八向山(最上川本合海の西北にある山)にある神社。

  (4)  前に合川の津とある所の誤り。合海の岸は本合海(旧八向村)で、新庄市の西南部にあり、最上川の津港であった。

  (5)  この地名不明。

  (6)  宮城野の原・榴が岡・千賀の鹽竈・姉歯の松。前項の(9)(10)(11)(18)。

  (7)  羽前国最上郡と新庄市の境。瀬見温泉の対岸、小国川に沿った五百米程の山。

  (8)  不明。

  (9)  阿波本「かめわりやまにかゝりてこそゆかめとてかめわり山へそかゝられけるその日はさきのふのにいたといふ所にとゞまり給ふあくれはかめわり山をこえ給ふ」、稲武本「かめはり山にかゝりてこそゆかめとてかめわり山ヘそかゝられけるその日はさきのふのふにいたといふ所にとゝまり給ふあくれはかめはり山をこえ給ふ」。

田川を出立した義経一行は、大泉の庄大焚字(鶴岡市大宝寺辺か)を通ったが、その地から「羽黒の御山を外処(よそ)に拝」んだにすぎない。義経には羽黒参詣の志があったが、北の方久我の姫君の御産の月にあたるので、弁慶を代官として参らせたと『義経記』は語る。ところで語り手に初めから参詣の意志がなかつたことは、愛発山で北国の道案内した男が「大泉の庄、大焚字を通らせ給ひて、羽黒権現を伏拝み参らせ」として、羽黒山に詣でぬ予定の語り方をし、「清河といふところに着きて杉の陸舟に棹さして」最上川を上ることを指示している。

最上川に臨む清川の地で義経・弁慶は落ちあひ、その夜は五所王子の御前(おんまえ)で一夜の通夜(つや)をなした。義経一行は王子々々に神楽を参らせ、思ひ思ひの馴子舞をやり、清川から舟に乗り最上川を遡り、本合海で下船した。『義経記』は最上川の名所旧蹟には詳細であり、北の方の歌物語を展開させている。最上川は古代から重要な交通機関であり、敦賀から酒田へ海上運ばれた京文化は、酒田から最上川を遡り、軽井沢峠を越えて、多賀城へもたらされていた。東北経営に関心の深かった都人には、

    最上川のぼれば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり

の『古今和歌集』東歌は異様な感銘であった。最上川舟行のコースは都人にも関心があり、「北国落」の語り手も、その地理に通じて詳細であった。最上川舟行の船人は五所王子を信仰し、また五所王子は羽黒に登る重要な拠点であった。

『出羽国風土略記』によると、五所王子の祭神詳ならぬが修験であり、往古王子この所を下り、常楽といふ所で崩御されたので、土人霊社を建て六所王子と崇め奉るとある。

また義経北の方の笛一管と弁慶の鉢巻があるとも見えている。五所王子(現在御諸皇子神社と称す)の境内には船玉神社が祀られて、毎年一月十七日には船関係の人たちがこの神社に通夜して祭りをなしていたという。五所王子の修験は最上川舟行の安全を念じて発達したとみてよいだろう。また境内に稲荷社が祀られていて、熊野信仰と表裏一体の稲荷社の存在は、もともと五所王子が熊野修験の道場であったかを思わせる。このことの推定を助けるのは王子の死に殉じたといふ随身三人を祀った三社様が見られることである。最上川は清川の地点を要として扇状にデルタ地帯を発達させている。

最上川の熊野修験は、清川と本合海の中間地点、古口で最上川に合する角川の上流部落は早くから熊野修験の地であり、今熊野社がある。角川の今熊野社も清川の五所王子と同じく羽黒山の登り口の一拠点となつてゐる。最上川の地理に義経記の語り手が習熟していたのは、最上川舟行の重要拠点が天台熊野側の管理のもとにあったから、上方でも正確に伝承されていたように思われる。秘境僻地をも恐れず修験のために廻国した恐るべき足跡と旅の実感を「北国落」に見ることが出来る。

  

  亀割山にて御産の事

さて一行は、瀬波山、千賀の塩竈、松島、姉歯の松などをご覧になって、亀割山に差しかかられたところ、急に産気がおつきになった。

十郎権頭は気が気でなく、山が深くなったらどうしようと思って、道から一二町ほど奥に分け入り、木の下に敷皮を敷き、これをお産所と決めた。しかし北の方は、陣痛がはげしく、お命もどうかと危ぶまれるほどにおなりになったので、義経は奥方をお慕いになって、身も世もないご様子で身悶えし、不安のあまり、「御身を死なせるのは悲しい」と、涙をぼろぼろと流してお泣きになったので、侍たちもこれを拝見し、「さすがに弓矢の道では、こんなお気弱ではおありでないのに」といって、皆貰い泣きをした。

しばらく経って、「水が欲しい」とおっしゃったので、弁慶が谷川の水を探し求めようとして下って行き、川が流れていないかと耳を澄ましたが、水音が聞こえないので、弁慶はぶつぶつと独り言をつぶやいた。「ああ、まったくご運がないといっても、世間では簡単に手に入る水さえ探し出すことができないとは」といって、さらに谷へ下って行くうちに、山川が流れている音を耳にし、水を取って元の場所に帰ろうとしたが、谷は暗く霞が深かったので進むべき見当もつかず、法螺(ほら)貝を吹いたところ、峰の方でも貝の音を合わせて答えたので、その音をたよりに水を持ってやっと帰りついたが、もうその時は息が絶えてしまっておられた。

弁慶は、北の方の御髪(みぐし)を膝の上に掻き抱(いだ)いてお乗せし、「都にお残しして行こうと申し上げましたのに、お心弱くお連れして来たため、こんな辛い目にお会わせ申したことが悲しい。たといご寿命でおありであるとしても、弁慶がどんなにか苦心をして探し出した水でございますから、お飲みになった上でどうともおなりなさりませ」といった。少し時間が経ってから、北の方は息を吹き返して、身じろぎをなさったので、弁慶は、「お気の弱いことよ。そこをどかれよ」といって、お抱き起こし申し上げ、北の方のお腰をお抱きし、「南無八幡大菩薩よ、願わくは無事にお産ができるように、お護り下さい」と、信心を深くこめて祈念申したので、今はお産も安らかに終わった。

幼い人がお泣きになる産声を聞いて、篠懸(すずかけ)の袖でくるんでお抱き上げし、どうやってよいか勝手はわからないが、臍の緒を切って産湯をおつかわせし、この地は亀割山なので、亀の万年のお命、鶴の千年の寿命にあやかって、亀鶴御前とお名付けした。

義経は、「余が無事であれば行く末までも生きるたよりはあろうが、それがおぼつかない。このままこの山に捨ててしまえ」とおっしゃったが、弁慶は、若君を抱き上げ申し、「奥方は、義経様お一人を頼りにされて来られたので、万が一の事でもおありならば、他に頼みとするお方は誰もおられません。この若君をご一緒にお見守り申し上げることができれば、お頼もしく存じます。ご幸運は、御伯父御の鎌倉殿に似られますよう。

お力は不十分ながらこの弁慶に似られますよう。御命は、千秋万歳の寿命をお保ちなさいませ」といって、お祝い申し上げた。「ここから平泉はまだ道のりが遠うござるので、旅人などに出会い申した時、むずかられなさり、この弁慶を恨むようにおなりになるな」といって、肩衣にくるんで笈の中にお入れ申したが、道中一度もお泣きにならなかったのは、不思議なことであった。

せこのという所から栗原などという所へ行き、そこから亀井と伊勢三郎の二人を御使いとして、秀衡のもとへ行かせた。

最上川本合海で下船した義経一行は、笹谷峠を越えて宮城野の原に出て塩釜に通ずるコースと、亀割山を越えて、姉歯の松へ出るコースのいづれを選ぶかに惑うが、前者は「三日に廻るすぐ道」であり、後者は「直(すぐ)」の道であり、名所々々は見たいが、一日も近いから亀割山コースを選ぶ。藤原秀衡の勢力下の国にあっては、一日を争ふ必要もない筈だが、これもまた愛発山で逢った男の道案内に従って「松山一つだにも越えつれば、秀衡の館は近く」であり、「理に枉(ま)げてこの道(亀割山越え)にかからせ給ふべし」の助言を容れている。亀割山越えは今日もあるかなきかの難路である。恐らく修験者の手で拓かれた道で、義経主従が敢てこの難コースを選んだのは、この語り物にとって重要な意義をもつことを意味している。

久我(こが)の姫君の亀割山出産譚は「北国落」に「久我家」の登場した舞台のうちで最高潮の効果をあげている。義経の北の方として久我の姫君を「北国落」に随伴させた重要な目的の一つは、語り手が亀割山中誕生譚を語るためにあったと云っても、決して過言ではない。亀割山中にあって、久我の姫君は急に産気づき、大木の下を産所ときめたが、息も絶え入るばかり苦しみ水を求めた。水瓶をもって弁慶は真闇な谷を降りて行き、漸く水を得ると山は霧深くして帰るべき道を失い、山伏の貝を吹いて義経一行に合図し、産所に戻ると、すでに姫君はこときれていた。『義経記』はこの前後の義経の傷心を見事に描いている。祈祷は修験者の表芸であり、熊野では死霊復活の信仰があり、水を姫君の口に入れ、弁慶は必死に祈るとその効あって、姫君は蘇生し、男の子をやすやすと産み、亀鶴御前と名づけた。亀鶴御前の将来を案じた義経は山中に捨てようとする。弁慶はこの若君さえあれば、義経に万一のことがあってもとして、果報は頼朝に、力は弁慶に似、命は千歳万歳までもと寿詞(よごと)をいって、篠懸に巻いて帯の中に入れた。これは捨児の信仰を物語るものであろうか。拾われた子はよく育つと信ぜられていたからである。

この亀割山中誕生譚は水の信仰とともに、熊野語部に語られた山中誕生、山中棄児の説話の型に従っていると思われる。『義経記』は何故、北の方の亀割山中出産譚を重要なものとして語ったのだろうか。

山形県と秋田県の県境に位する神室山(標高一三六五メートル)の尾根を伝って西南に下って来ると亀割山(標高五九三メートル)である。神室山は西の鳥海山に対して東の御山といわれ、窟室(かむろ)大権現鎮座して、小国口・仙台口・仙北口・役内口など八方八口の登山路発達し、いづれの口々にも宿坊あまたあり、亀割山に隣る主峰八森山について『寿永軒見聞集』は、亀割山誕生譚を話した後、八方に八の森、その真中平で、八葉の蓮花の如くであるとし、先づ窟室大権現は八森山に天降りして、暫く鎮座の後、鳥海山に飛行された。鳥海山が北海に焼け崩れたのが飛鳥であり、その後この権現が神室山に鎮座されたと説いている。八森山に神が天降りされたのは、金峰山がもと八葉山といったように、八葉の蓮華の花開く幻想のもとに天台熊野修験の根を下ろしていた道場であったのだ。義経一行は新庄市辺から亀割山に向った。途中鶏鳴を聞いた村を鳥越村、暫く休んだ所を休場村と名付けたと『寿永軒見聞集』にいう。

亀割山から一行は瀬見に下り、小国口に出たものか。小国口は小国川の上流最上町で、この登口には薬師原、権現山など神室山修験に関係深い地名が見られる。亀割山は神室山、八森山の山系に連(つら)なり、早くから修験者によって拓かれていた道があった。「北国落」譚を管理していたであろう天台系熊野修験者は、都から平泉への道に亀割山をわざと選んだのは、「山伏の道」が特にこの物語に重要であり、久我の姫君の山中出産譚を亀割山とする伝承が行われていたからであろう。

『増訂最上郡史』に小国村月楯の古墳から一つの古碑が発掘されたことが出ている。元応のころ久我家の連枝、三位中納言光成卿といふ人、みちのくの国に下り、この地に杖をとどめ残したのでこの碑をなしたという。碑石に添えて古松一樹あり、と『増訂最上郡史』にある。流離の久我家の人が残した元応(鎌倉末期)の頃は、義経伝説の盛んな発生期であり、「プレ義経記」、つまり「原義経記」の成立期である。久我家の事蹟が、流離の人義経に従った久我の姫君の出産譚の地点に伝えられているのは、単なる偶合であろうか。

久我の姫君が義経の妻室でなかったことは明らかであるに拘らず、盲目法師は『義経記』において義経の北の方となし、茫々たる湖上にさすらい、雪の愛発山に彷徨し、幾多の難所難関も肝の消える思いで、義経と喜びも悲しみも共にした。『平家物語』を初めとして多く語り物は、熊野語部の手にかかるところが多い。熊野と盲僧との交流を先ず考えねばならぬ。熊野本宮の傍に天夜尊(盲僧の神)の旧跡があり、大智庵と号し、日本国中座頭の檀那たるべしと縁起に見えている。賀茂社や祇園社と同じように熊野三山では琵琶法師を庇護し、琵琶法師もまた熊野三山を本拠とし、各地の霊山聖地をたよって、口すぎの料を得ていたものであろう。熊野詣の途中、後鳥羽院は池田王子社で琵琶法師を召され、その旅愁を慰められたことは藤原定家の日記に記すところである。後に熊野比丘尼が絵解を生業として回国したが、これも盲僧と熊野との交流に基づくものであらう。

久我姫君の亀割山出産譚は、盲目法師の支配者だった久我家の姫君を『義経記』に登場させた。この語り物の語り手琵琶法師が、熊野本地をこの山中誕生譚に導入する必要があったからである。

義経をめぐる女性たち義経の正妻は武蔵の河越重頼の息女で、元暦元年(一一八四)九月十四日に上洛して義経に嫁している。重頼の妻は頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の娘であり、重頼は武蔵の秩父(ちちぶ)氏の中心人物という関係にあった。文治五年(一一八九)義経が藤原泰衡に襲われて自害した際、二十二歳の妻と、四歳の女子がいたとあるのが、重頼の娘とその女子である。『義経記』では、奥州にくだったという義経の妻を、大納言平時忠の娘や久我家の姫君とし、苦難の末に奥州にくだった物語として描いているが、『吾妻鏡』文治元年(一一八五)九月二日条から、義経が大納言時忠の婿になっていたことは知られていても、久我の姫君が義経の妻であった証拠はない。

亀割山を下った義経一行は陸前国栗原郡に入り、栗原寺に着き亀井六郎、伊勢三郎を使者として平泉に派遣し、藤原秀衡の迎えを待った。金売吉次とともに奥州に下った若き日の義経は、この栗原寺に着いて、吉次だけは平泉に向ひ、義経は秀衡の迎えを待ったと『義経記』に伝えている。松島見物をした義経、金売吉次の一行は、歌枕で名高い姉歯の松を見て栗原寺に着いたというから、山寄りの栗原寺にわざと迂回したことになる。最初と最後の奥州下りに、最後の拠点として栗原寺をあげているのは、『義経記』を編輯した者に舞台効果を存分に考えての意識的なものがあったに違いない。栗原寺については『吾妻鏡』に義経最期のあと、藤原秀衡の遺臣大河次郎兼任が叛逆を企て、義経と号して出羽国に兵を挙げ、鎌倉に攻められ、栗原寺に落ちのび、この寺で最期をとげたと伝えている。

栗原寺は若き義緑の平泉入りには「栗原の大衆五十人送り参らする」とあるほど、その昔は三十六坊の大寺であり、みちのく唱導の中心として義経伝承に参与するところが多かったであろう。

失意の人義経の彷徨を仔細に追い訪ねてみると、その足跡の記録は、芭蕉の『おくのほそ道』と一致する部分が多い。義経主従は北陸から東北に向ひ、最上川を溯った。芭蕉主従は東北の地を先ず訪ね、最上川を下って北陸道に向った。北陸道には『義経記』に記すように修験の山社が多いが、東北の地へ一歩足を印すると、山という山、村という村に修験は今日に生きている。村々には霞場(かすみば)と称する一種の講組織が行われていて、それぞれの修験道の縄張りが厳然と残っている。霞場の人々は先達山伏に引率されて、その本山へ詣でる事業が行われていた。本山は多くの霞場によって信仰の普及とともに、その経営をはかっていた。『義経記』北国落について義経流寓の地をたどると、一様に天台系熊野修験の地であった。天台系熊野修験の支店・出張所、つまり霞場に、義経は食客(かかりうど)の形で流浪している。「北国落」は大小の霞場の霊験と宣伝の形のもとに成立している。

熊野と霞場を争った羽黒山は別当天宥のとき(寛永十八年)出羽三山を天台に改宗し、上野寛永寺の傘下に入った。徳川譜代の大名鶴岡城主酒井氏と境を争っていた関係もあり、徳川家康の菩提寺であった上野東叡山寛永寺の末寺として出羽三山はその支配下に入った。如何にも才人の計であった。この改宗は徳川の庇護を得るという計算のもとであったろう。徳川将軍家は俄改宗と譜代大名のいずれを主とするか。経営の才にたけた別当天宥は島に流されて事件は落着している。天宥流罪の後、羽黒山に詣でた芭蕉は、天宥の偉業を忍ぶ羽黒山から、その追悼の詩文を依頼され記している。されば『おくのほそ道』の中で芭蕉は「当時(羽黒山)、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の燈かかげそひて僧坊棟をなちべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴び、旦恐る。繁栄とこしなへにして、めでたき御山と謂ひつべし」という。真言の山であった羽黒は天宥以後「天台止観の月」に照されていたのである。

羽黒の天台改宗は東北修験道の大変革をもたらし、俄かに改宗と所属変えが行われた。金峰山などは天台から逆に真言になった。霞場の争奪と経営にあけくれた歴史は明治維新の日まで続き、神仏分離の革命によって修験道の衰退の日を迎えた。源義経主従が北国落ちをしたのは文治三年(一一八七)二月のことです。『義経記』の記事によって、清川・合海間の最上川で旅人や物資輸送のために川船が使われていたこと、古代以来の歌枕の伝統を受け継いでいることがわかります。

 

  三   最  上  川  と  芭  蕉

本合海の八向楯と矢向神社

元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉は『おくのほそ道』に、最上川下り(六月三日、陽暦七月十九日)を次のように記しています。

 

    最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふおそろしき難所あり。

  板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船というならし。白糸の瀧は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨て立つ。水みなぎって舟危し。

      五月雨をあつめて早し最上川 

 

『おくのほそ道』最上川下りの記事は、わずか一三〇字の短文です。この中に「最上川」「陸奥」「山形」「碁点・隼」「板敷山」「酒田」「稲船」「白糸の瀧」「仙人堂」をとりあげています。

「碁点・隼などいふおそろしき難所」は、大淀挟窄部(村山市)の三難所(碁点・三ケ瀬・隼)であり、芭蕉らは実際には通っていません。

「水みなぎって舟危し」という急流、日本三急流(富士川・球磨川・最上川)の一つである最上川の様相を強調したかったからでしょう。

「板敷山」は、最上川下流の左岸、新庄藩と庄内藩の境にそびえる海抜六三〇mの山です。『夫木集』に「みちのくに近き出羽の板敷の山に年ふるわれぞわびしきよみ人しらず」とあり、歌枕です。

「酒田」は、最上川が日本海に注ぐ河口港です。

「仙人堂」は、外川神社ともいい、源義経の家来常陸坊海尊が主君の道中安全を祈念するために、この堂に籠って仙人になったといわれます。  

「白糸の滝」は、最上峡の象徴で全長二二三m。「夫木集」に源重之の「最上川滝の白糸くる人のここに寄らぬはあらじとぞ思ふ」「最上川落ちくる滝の白糸は山の眉よりくるにぞありける」とあり、歌枕です。前に紹介した『義経記』に北の方が詠んだ二首が載っています。

芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句は、大石田の高野一栄亭での歌仙(かせん)「さみだれをあつめてすずしもがみ川」の句形であり、五月雨で増水している最上川の急流を実際に川船で下って「危い」体験をして改作したのです。

大石田での「さみだれをあつめてすずしもかみ川」は、歌仙の発句(あいさつ)であり、涼しい風をはこんてくる最上川の豊かさ、やさしさを仮名書きで表記したのです。

新庄市本合海から急流の最上川下りを体験して、仮名書きを漢字に、「すずし」を「早し」に改め、最上川の豪壮さ、はげしさを表記したのです。五月雨の最上川のイメージを仮名書きと漢字書きの二つの句形にした芭蕉のこまやかな心づかいには感心します。

 

ちなみに、「五月雨」「五月」「早乙女」の「サ」は、田の神・水の神のことです。五月とは、田植え時に、田の神・水の神がくる月です。田植えが終ると「サノボリ」、田の神・水の神が山にのぼり、山の神になるのです。「サノボリ」が訛(なま)って「サナブリ」になったのです。

芭蕉の『おくのほそ道』には、芭蕉五〇句、曾良一一句、挙白一句、低耳一句の六三句が載っています。そのうち川を詠んだ句は最上川の句だけであり、しかも二句も載っています。最上川以外の川もたしかに本文に登場しています。阿武隈川・名取川・野田の王川・北上川・衣川・黒部川などは本文に紹介されていますが、作句にまで至っていません。

「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が出会った川は数知れずあります。主なる川をあげると、利根川・鬼怒川・大谷川・那珂川・白石川・阿賀野川・信濃川・犀川・九頭竜川などです。

芭蕉は、「おくのほそ道」の旅の前年に書いた「笈の小文」で、旅日記のあるべき姿に言及しています。そのなかで、「かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚侍れども黄奇蘇新のたぐひにあらざれば云事なかれ。」と述べているのです。

この方針にしたがって、『おくのほそ道』では多くの川が無視されてしまったのでしよう。歌枕になっているか、いないかが、芭蕉の川の価値基準であったようてす。

そもそも芭蕉の紀行文では、川を詠んだ句が少ないのも事実です。日本の川名は五字で成り立つ川が多いので、五七五の中に詠みやすいはずなのに詠んていないのです。「野ざらし紀行」では、四七句中、川を詠んだのは、同行の門人千里の「秋の日の雨江戸に指折ん大井川」の一句のみです。「鹿島詣」、「笈の小文」、「更科紀行」には一句もありません。こうした点からみても、最上川二句というのは破格の扱いです。    

『おくのほそ道』の本文に載ったのは、前にあげた「五月雨をあつめて早し最上川」と、最上川河口酒田での「暑き日を海に入れたり最上川」です。なお、山形は日本最高気温四〇・八度(昭和八年七月二十五日)を記録しています。

ほかに、五月二十八日〜三十日(陽暦七月十四日〜十六日)、大石田での歌仙で「さみだれをあつめてすずしもがみ川」、六月一日〜三日(陽暦七月十七日〜十九日)新庄での三物(みつもの)で「風の香も南に近し最上川」を詠んでいます。河合曾良の「俳諧書留」に「盛信亭」と前書した芭蕉の発句であり、脇句が柳風(渋谷九郎兵衛盛信の息子、塘夕ともいう、通称渋谷仁兵衛)の「小家の軒を洗ふ夕立」、第三が木端(小村善右衛門)の「物もなく麓は露に埋て」であり、芭蕉が六月二日盛信亭に招待された時の作品でしょう。

平成元年九月十日、新庄市は芭蕉「おくのほそ道」三〇〇年記念と新庄市民プラザ開館記念に、芭蕉句碑「風の香も南に近し最上川」(高さ一七〇センチ・幅一一五センチ・厚さ三五センチ、休場石、渋谷道氏書)を盛信亭(新庄市本町山形銀行新庄支店)に近い新庄市民プラザ前に建立しました。

また、この日に、七吟歌仙一巻興行、風流の発句「御尋に我が宿せばし破れ蚊や」、芭蕉の脇句「はじめてかほる風の薫物」ではじめています。ほかに「風流亭」と前書した三つ物、芭蕉の発句「水の奥氷室尋る柳かな」、風流の脇句「ひるがほかかる橋のふせ芝」、第三が曾良の「風渡る的の変矢に鳩鳴て」を付合いしています。

新庄市金沢新町に「柳の清水」が復元・整備され、大正十年から金沢八幡神社にあった芭蕉句碑「水のおく氷室尋る柳かな/芭蕉翁/羽新庄雪映舎中修造、裏面に  涼しさや行先々へ最上川/蓼太/天明元年歳次辛丑十月十二日  東都宗平建  沙羅書」もその側に移しました。  

なお、『おくのほそ道』では、芭蕉と曾良が新庄に立ち寄ったことが全く省略されています。大石田から最上川を舟で下ったように「最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ。」と書いたのは、最上川中心に紀行文をまとめるための文学的フェクションです。大石田で「わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。」を強調したい気持からであろう。歌仙「さみだれを」は、紀行中唯一の芭蕉真績歌仙てす。

以上、芭蕉の最上川の句のおかげで、最上川は文学史上東北一の大河となりましたが、芭蕉に最上川下りの文を書かせ4句も詠ませるぐらいに、最上川はやはりなによりも大河であったのです。

『古今和歌集』・『義経記』・『おくのほそ道』の時代から、時ははるかに移っても、流れ続ける最上川は、文学や芸術(絵画・写真)のモチーフとして変わらぬ素材を与えてくれます。